第二十九話「はじめてのお茶会」
パティが七歳になった春のことだ。
出会ってから、二年。学問も、剣も、魔術も、それなりに育った。
学問。
怪奇現象の出動回数は月平均で半減した。もはや椅子は滅多に動かない。
剣。
転んでも起きる子は、転ばない子より速く上手くなる。木剣を持つ手つきは、まだ薪を割るそれに近い。だが、振る数だけは、人の倍こなす。
魔術。
シモン老人の手ほどきは、相変わらず「型」のみだ。だが、この二年でパティの闇は、綺麗に育った。
そして、一番分かりやすく育ったのは――会話だった。
「パトリシア様、お茶のおかわりは?」
「いただくわ。……ありがとう。おいしいわね」
――育った。
外では、もう立派な令嬢である。
二年分の教育と仕込みの成果は、まずまず上々。挨拶も、礼も、笑顔も、そつがない。
ただし。
「テトー。ねえテト。きょうのおやつ、プリンだって。やったー」
「にゃ」
家族と俺の前では、相変わらずだった。
これはこれで、正しい育ち方だと俺は思っている。
仮面と素顔の切り替えは、大人の社会の基本装備だ。
七歳にして二面性を獲得した飼い主に、俺は一人前の社会人の目で敬意を表している。
さて。
本日は、この二年越しの仕込みの、本番である。
公爵令嬢パトリシア、初のお茶会。
馬車の中で、俺はゆっくりと身じたくを整えた。
会場は、ヴェルナー侯爵家のサロン。
庭に面した白亜のホールに、長いテーブル。銀の茶器。三段の菓子皿。そして、七歳から九歳ほどの令嬢が十人ばかり。
初めてのお茶会というのは、要するに幼年令嬢の見本市である。
どの家の娘が、どれだけ「令嬢らしい」か。
噂の仕入れと、品定めと、格付け。
和やかな茶会の皮を被った、情報戦の最前線だ。
そして今日の目玉は、言うまでもない。
――フィロパトール公爵家の、「闇の」令嬢。
「……来たわね」
「あの子が……」
「ネコ、連れてる……」
入場した瞬間、ざわめきが微かに走った。
闇属性の判定は、貴族社会ではもう知れ渡っている。
噂とは、正確に伝わるものと、正確でないほど正確に伝わるものがある。
あの判定は、後者だった。
(……さあて。初陣だ)
俺は、パティの腕の中で静かに尻尾を揺らした。
お茶会での情報戦の要諦は、何もしないことだ。
ただし、情報の流れ方には注意が必要。
そのくらいで、ちょうどいい。
「まあ、パトリシア様。よくいらしてくださったわ」
出迎えたのは、会場を提供した主催者のヴェルナー侯爵夫人。
笑顔が上品で、目が記録係だった。
噂の集散センターである。
「はじめまして、と申すべきかしら。お綺麗ね。そのリボン」
「ええ。……これは、おかあさまと選びましたの」
パティの返答は完璧だった。
挨拶、礼、微笑。二年分のレッスンが、全部通った。
夫人の目が、ほんの少しだけ丸くなった。
噂と実物の食い違いに、最初に驚くのは、いつも噂の配送元である。
だが、本番はここからだった。
席について、紅茶が配られる。
その時だった。
「……ねえ、あなた」
隣の席の令嬢が、声をかけてきた。
ランズベルク伯爵家の次女。八歳。おそらく、この会場で一番早口な子だ。
「その猫……」
「テト?」
「ええ。触ってもいい?」
「だめ」
「えっ」
即答だった。
「テトは、知らない人には触らせないの」
「まあ……」
「でも、仲良くなったらいいよ」
「どうしたら仲良くなれるの?」
「お菓子」
「猫って、お菓子を食べるの?」
「テトは食べる」
「……変な猫」
「うん。変なの」
(……俺を話題にするな)
俺はパティの腕の中で、耳だけを動かした。
しかし、周囲の令嬢たちの視線が、少しだけ柔らかくなったのを感じた。
闇の令嬢。でもその膝の上には、黒猫。
闇は怖い。
闇は不吉。
そういう噂だけを聞いていた少女たちにとって、実物のパティは、どうやら思っていたより普通の子供らしい。
そして、その膝には、猫がいる。
猫というものは、どうにも人間の警戒心を緩める。
「ねえ、あなた」
今度は別の令嬢が、パティに話しかけた。
「あなたのドレス、素敵ね。――本当に素敵よ。後ろ姿なんて、絵みたい」
来た。
社交辞令である。悪意はない。ただの形式だ。
「でしょう?」
パティは、あっさりと真正面から受け取った。
社交辞令というものは、
「いえ、そんな」
と受け流す球である。
それを素手で掴んで、
「でしょう?」
である。
伯爵令嬢の顔が、一瞬、固まった。周囲の数席が、ピリッと凍る。
(……爆撃、一発目)
これは計算済み――ではない。だが、想定内だ。
パティの物言いは二年で磨かれたが、強い衝撃にはまだ弱い。
甘すぎる父親と兄たちのせいでもある。
そして、社交辞令という名の衝撃は、今日のような晴れ舞台では、必ず一発は飛んでくる。
その直後だった。
「きゃっ!」
悲鳴が上がった。
向かいの席の令嬢が、カップを傾けたのだ。紅茶が、ドレスの裾に零れていく。
「あ、あわわ……」
その子が、真っ青になった。
初お茶会で、ドレスに紅茶。社交デビューの初戦での失態は、噂の格好の餌だ。この子は今夜、枕を濡らす。
(――来た)
俺は目を細めた。
こぼれた紅茶を、見えない手で押し戻す。
全部を止めるのは簡単だ。だが、それでは目立つ。汚れない程度に。不自然ではない程度に。
――「運がよかった」で済む程度に。
(一滴。二滴……三滴)
――ほんの少しだけ。水滴の一粒一粒が、レースの要所要所を、避けるように流れて、床に落ちた。
(……許容範囲)
「あ……あれ?」
令嬢が、自分のドレスを見る。
「端っこだけ……」
メイドが駆け寄り、裾を拭いた。
五分もすれば、もう気にならない程度だった。
「……よかったわね」
隣の令嬢が、ほっと胸を撫で下ろす。
だが、その目が俺に向いた。
(……見るな)
その子は首を傾げた。
「……ねえ」
「なあに?」
「今、猫が見たよね」
「猫だもの。見るでしょう?」
「そうじゃなくて……」
俺は、すっと視線を逸らした。
猫は何も知らない。猫は何もしていない。
猫はプリンのことしか考えていない。
そういう顔をしておく。
「変な猫」
「うん」
パティが答えた。
「でも、いい子なのよ」
(……余計なことを言うな)
そして、茶会の後半。
庭に面した窓が、ばたん、と開いた。
突風だった。
ナプキンが舞う。花瓶が傾ぐ。
「きゃあ!」
「まあ!」
令嬢たちが声を上げた。
花瓶が倒れる。――寸前。
俺は見えない手を伸ばした。
花瓶は四十五度で止まり、それから、何事もなかったようにゆっくりと戻った。
同時に、舞い上がったナプキンが一枚ずつ、令嬢たちの膝へ落ちる。
風は、窓を開けただけで止んだ。
「…………」
「…………」
「……今日は、風がお利口ね」
ヴェルナー夫人が、誰にともなく呟いた。
それが、この茶会で一番正確なコメントだった。
そして今度は、複数の視線が俺に集まった。
一人の令嬢が、恐る恐る言った。
「……あの猫」
「なあに?」
「花瓶が倒れる前に、見てなかった?」
「見てた」
パティが即答した。
「テト、いつも周りを見てるの」
「……へえ」
「変な猫でしょう?」
「うん……」
少女たちは顔を見合わせた。怖がっているというより、不思議がっている。
その変化が、俺には分かった。
闇の令嬢。
黒猫。
不吉。
その三つが、少女たちの頭の中で、少しずつ別の形に組み替えられている。
――黒猫がいる。
――でも、怖くない。
――むしろ、何か起こると助けてくれる。
そして、茶会が終わる頃には。
「ねえ、聞いた?」
「ええ。パトリシア様の席の周りだけ、今日、なんだか……」
「何も、起きなかったわよね」
いや、起きていた。
紅茶は零れた。風が吹いた所為で花瓶も倒れかけた。
――ただ、全部、無傷で終わった。
「まあ。あのお方のお側にいると、不幸が逃げていくみたい」
「……闇のはずなのに」
「だから、そうなのよ」
別の令嬢が、パティの膝の上を見た。
「……あの闇が、追い払うのかも」
(……おお)
令嬢たちの噂話は、こちらの思惑とは少し違う形で進んでいる。
だが、方向は悪くない。
闇属性――
それを、「不運を呼ぶ」から、「不運を追い払う」へ。
同じ属性でも、語り口一つで印象は変わる。
そして帰り際。
「パトリシア様」
最初に「でしょう?」を食らった伯爵令嬢が、駆け寄ってきた。
「今日は、楽しかったわ。また、お茶会で会いましょう」
「ええ。また」
パティは、にこやかに答えた。
社交辞令を、今度はちゃんと社交辞令として返した。
……いや、半分以上、本気だった気もする。
「それから」
伯爵令嬢は、少しだけ声を落とした。
「……そのドレスの後ろ姿、本当に、絵みたいだったわ。私、本当にそう思ったの」
「ええ。知ってるわ」
パティは、あっさりと言った。
「パティも、本当によいと思った時だけ、そう言うの。……あなたも、そうでしょ」
伯爵令嬢は、少しだけ目を見開いた。
それから、くすりと笑った。
「……ええ。そうよ」
馬車の中で、俺はそのやり取りを反芻した。
パティの「でしょう?」は、傲慢ではなかった。
この子は、本当にそう思ったのだ。
そして相手も、本当にそう思っていると思っている。
――疑っていない。
たぶん、それがパティの一番厄介なところで、一番きれいなところだった。
(……素材が、育ちすぎている)
「テト。今日、なんだか疲れた」
「にゃ」
(お疲れ様。よくやった)
「でも、楽しかった」
パティは、窓の外を眺めた。
「……お茶会って、意外と、いいものね」
少し考えて。
「お菓子の持ち帰りもできたら、もっと良かったのにね」
「にゃあ」
(それは社交ではなく、食欲の問題だ)
馬車の窓から、夕日が差し込んでいた。
パティの横顔は、少しだけ大人びていた。
その夜から、貴族社会の噂の回線に、新しい項目が流れ始めた。
『フィロパトールの闇の令嬢の席では、皿が割れない』
『あの子の隣にいると、零した紅茶が綺麗に流れた』
『風までが、あの子に遠慮するらしい』
そして、月も変わる頃には、こういう噂に集約されていった。
――『パトリシア様の周りでは、不思議と、不幸が起きない』。
都市伝説の、誕生である。
そして、もう一つ。
――『あの令嬢は、いつも黒猫を連れている』。
こちらもまた、静かに噂になり始めていた。
――その夜、西棟の塔。
『テト観察日誌』
“付き添った侍女から、初お茶会での情報が入ってきた。
紅茶が零れた。
花瓶が倒れかけた。
だが、どちらも無事だった。
二度も立て続けに、偶然が起きるか。
計算した。……計算するまでもなかった。
おそらくあいつだ。
あいつが、初のお茶会を無事終わらせるため、何かしたのだろう。
お茶会に参加できなかったことが悔しい。
もっとも実際に参加していたら……いや、僕の精神が保たなかっただろう。
令嬢たちはテトを珍しがり、何人かは触りたがったが、パティは断ったらしい。
『テトは、知らない人には触らせないの』
……その時のパティの顔を見て、少しだけ笑ってしまった。
あの猫が何者なのかは、まだ分からない。
ただ――パティにとって、あいつが特別なのだけは、もう疑いようがない。
追記。
パティが帰ってきて、『楽しかった』と言っていた。
その顔を見て、今日は、何も問うまいと思った”




