第二十八話「剣」
領地視察は、五日間の滞在となった。
往復の道程を入れれば、七日間。当主の日程としては異例の長さだったが、ロムルスは「今年はゆっくりやる」の一点張りだった。
本人の口からは出なかったが、理由は分かる。この当主は、娘に「領地」を見せる時間を、帳簿の合間にこしらえたのだ。不器用な親の、不器用なりの日程表である。
そして四日目の午後。
「おとーさま。あれ、なあに?」
馬車の窓から、パティが指を差した。
領都の外れ。騎士団の練兵場だった。
甲冑の音。木剣の打ち合う音。掛け声。土煙。「王都防衛の要」と呼ばれるフィロパトール騎士団の、冬の鍛錬風景だ。
「騎士たちの、稽古だ」
「つよそう!」
「うむ。……見学するか」
「する!」
ロムルスの「うむ」に迷いはなかった。
おそらく最初から寄るつもりだったのだろう。娘が喜こばせる仕込みが、日に日にうまくなっている。
練兵場の高台に、席が設えられた。
パティは身を乗り出し、俺はその膝の上で見学だ。
前世で高校三年間、剣道部に所属はしていたが、指導者も居らず、道場にいるより、部員皆でソフトボールに興じている時間の方が長かった。
アレと比べると失礼なくらい、迫力が違う。
鎧を着込み、刃引きとはいえ鉄の剣を振るう。踏み込みのたびに地面が鳴り、剣戟の火花が散る。
「すごい……すごいね、テト」
「にゃ」
(……確かに、すごい)
すごい。そして、怖い。
あれだけの技術と装備を持つ集団が、王都の隣に常駐している。
領民はこれを見て「頼もしい」と思う。領主の家族は「誇らしい」と思う。
だが。
(……王都の連中は、これを見て、何と思う)
隣の家の庭に、常に磨かれた刃物が置いてある。
隣人がいくら善良でも、眠る時に、ちらりと気になるのが人情だ。
その夜、領邸の晩餐の席で、事件は起きた。
領邸のダイニングの壁には歴代の領主たちの絵姿が並んでいた。
厳めしい男の顔が続く中、一枚だけ、様子の違う絵があった。
女領主の絵である。
百数十年ほど前の当主らしい。細身の剣――レイピアを腰に、レースの襟飾りをつけ、睨むようにこちらを見据えている。目つきが、鋭い。
まるで絵の向こうから鑑定されているようだった。
「……このひと」
パティが、その絵の前で立ち止まった。
「女のひと」
「うむ。我が家の歴代で唯一の女当主だ。……剣の腕は、歴代でも指折りだったと記録にある」
「剣、もってる」
「うむ」
「……かっこいい」
パティは、絵を見上げて、じっとしていた。
それから、振り返って、言った。
「パティも剣、やりたい」
晩餐の席が、静まった。
「……は?」
アウグストのフォークが止まった。
「パティ、剣やるの。お犬にも、負けないし。あと、あの絵のひとみたいに、かっこよくなるの」
「……待て。話の順序が崩壊している」
アウグストの顔が、完全に兄の顔になっていた。
パティは気にせず続ける。
「お犬のときね、パティ、前に立ったでしょ。でもね、あのとき、足、ふるえてたの」
「…………」
「ふるえてても、前に立つには、つよくなきゃだめ」
パティは、自分の小さな手を握った。
「つよくなるには、剣」
パティは、壁の絵を指した。
「あのひと、パティとおなじ顔してる」
……見た。
確かに、似ていた。
顔立ちではない。目つきだ。あの、まっすぐに前だけを見ている、百年先も同じ場所に立っていそうな目つきが。
(……理屈は倒錯している。だが、結論は正しい)
犬に負けないため、ではない。
震えていても前に立つための、術を、この子は欲している。
そしてその先に、あの絵のような「自分」を見ている。
六歳児の憧れとは、往々にして、その子の未来図の下書きである。
もちろん、反対はあった。
「お転婆は感心しませんが……」
使用人の誰かが、小さく呟いた。
貴族の令嬢に剣は要らない。
そういう常識は、この家にも当然ある。
だが。
「やらせよ」
ロムルスが、一言で裁可した。
「護身は、悪い教養ではない。それに」
当主は、廊下の絵を見上げた。
「あの絵の主は、生涯、一度も戦場に出なかった。……剣を持つ者が一度も抜かずに終わることは、剣にとっても、持ち主にとっても、幸せなことだ」
(……重いことを、さらりと言うな、この当主)
剣を持つ者が抜かずに終わる幸福。それは、剣を持たせる側の、最大の祈りだった。
というわけで、剣術教師が招聘された。
ケンド・ヴァルチャリング。
三十代後半。フィロパトール騎士団、副団長。
領都に駐在するこの男が、月に二度、わざわざ王都の公爵邸まで出張することになった。
(……月二回、単身、馬を飛ばして片道三時間。……出張手当が涙ぐましいな)
領地での初回の指導。
領邸の中庭に、革の胸当てをつけた小さな令嬢と、木剣を持った大男が、対峙していた。
「パトリシア様、剣術の前に、まず一つだけお教えいたす」
「なに」
「転び方だ」
「ころびかた?」
「はい」
ケンドは、そう言うと、すっと腰を落とした。
そして。
大きな体が、驚くほど静かに地面へ落ちた。
ドサリ、ではない。
す、と。
衝撃を逃がしながら、芝生へ沈む。
「剣術とは、転ばない技術ではございません」
地面から起き上がりながら、ケンドは言った。
「転んだあと、立つ技術でもあります」
「……」
「転ぶのが怖くなくなった者から、強くなります」
パティは、ケンドを見た。
それから、自分の足元を見る。
「……やる」
「はい」
パティは、転んだ。
ぺしっ。
芝生の上に、小さな体が落ちる。
「…………」
「痛いですか」
「……いたくない」
「本当ですかな」
「……ちょっと、いたい」
「よろしい」
ケンドは笑った。
「痛みを隠してはいけません。痛いものは痛い。そのうえで、立てばよいのです」
パティは、起き上がった。
芝生を払う。
そして、もう一度転んだ。
起き上がる。
また転ぶ。
起き上がる。
(…………)
庭木を背に、俺はそれを見ていた。
転んで、起きる。
転んで、起きる。
泣かない。一度も、泣かない。
そして俺は、気づいた。
あの起き上がりの速さ。
あの、転ぶことへの慣れ。
あれは――
(……あれは、俺との追いかけっこの成果では)
廊下や庭を駆ける日々。
転んでも転んでも「まってー!」と追いかけてくる。
運動量の管理。健康管理業務。
俺が「運動させるため」に設計した、あの鬼ごっこが、ここに来て「剣の才能」として誤認されようとしている。
ケンドの目が、確かに、変わった。
「……副団長。あれは」
傍らの騎士が、小声で訊いた。
「ああ」
ケンドも、小声で答える。
「転倒への耐性が高い」
「やはり、素養が?」
「いや」
ケンドは、少し考えた。
「素養だけなら、ここまで自然には転ばん」
「…………」
「何度も転んで、何度も起きた経験がある。あの年齢で、転ぶことそのものを怖がっていない」
(……いえ。きっと俺との遊びです)
内心で抗議するが、当然届かない。
「まだ剣は握らせていない。だが――」
ケンドは、パティを見た。
「土台はある」
……まあ、いい。誤認でも、本物でも。あの子が転ばずに済む術を、一つでも多く覚えるなら。
その夜、領邸の執務室で、ケンドはロムルスに報告していた。
俺は、窓の外の桟瓦の上から、聞いていた。
「――パトリシア様は、続きます。あの目は、三日坊主の目ではありません」
「そうか。……すまぬな、月二の出張」
「とんでもない」
ケンドも笑った。
「私のほうが、良い気分転換をさせてもらっております」
「そうか」
「……ただ」
ケンドの声が、少し低くなった。
「王国騎士団との合同訓練について、ひとつ」
ロムルスが顔を上げた。
「何かあったか」
「今年も、まともには参加しませんでした」
「……今年も、か」
「はい」
「理由は?」
「平和だから、だそうです」
「…………」
ロムルスは、それ以上すぐには訊かなかった。
ケンドも、続けなかった。
しばらくして、ケンドが言った。
「我々が鍛錬を続けることについても、あまり快く思われていないようです」
「誰が?」
「……それは、私には分かりません」
「そうか」
「ただ、王都の騎士の中には、『そこまで鍛える必要があるのか』と口にする者もおります」
「そうか」
やがてロムルスが、静かに言った。
「ケンド」
「はい」
「今の話は、誰にも広めるな」
「承知しております」
「そして、騎士団には今まで通り鍛錬を続けさせよ」
「……はい」
「理由を訊かれたら?」
「なんと答えましょう」
ロムルスは、少しだけ考えた。
「王都防衛のため、と」
「承知しました」
「それ以上は言うな」
「はい」
ケンドが立ち上がった。
「では、失礼いたします」
「ああ」
扉が閉まる。
静かになった部屋で、ロムルスはしばらく黙っていた。
そして、誰もいない窓の外を見た。
「……平和、か」
その呟きは、俺のところまで届いた。
(…………)
俺は、屋根の上で尻尾を揺らした。
嫌な感じがする。まだ何が起きているのかは分からない。
王国騎士団が怠けているだけかもしれない。
領兵を馬鹿にする連中がいるだけかもしれない。
あるいは……別の何かかもしれない。
ただ一つ分かるのは――
(……強すぎる盾は、持ち主を危険に晒すこともある)
前世でもそうだったが、組織というものは、強いものを無条件には愛さない。
(……フィロパトール騎士団も、同じか)
だが、俺はパティの眠る窓に目をやった。
この子が、いつか何かに巻き込まれる可能性があるなら。
(……備えておくに越したことはない)
それだけだった。
――その夜、領邸の一室。
『テト観察日誌』
“領都視察、四日目。
パティが剣を始めた。副団長の目が、『素養がある』と言っていた。
……素養ではない。あれは、テトの追いかけっこの成果だ。僕は見てきた。毎日のように始まる、廊下の鬼ごっこを。
あの猫は、剣を持たせる前から、パティを鍛えていた。
……気が早い。気が早すぎる。猫のくせに、先を計算していたことになる。
……いや。
計算、していなかったのではないか。あの猫は、ただ、パティと遊んでいただけで。
……遊びが、剣の土台になった。
あの猫のやることは、いつも、後から意味が判明する。
追いかけっこも、観察日誌も、夜の散歩も。全部、後から。
……追記。
今日、副団長が父上に何か報告していた。声が低かった。……この領都の、騎士の空気が、いつもと違う。
ピンと来ない。ピンと来ないが、気になる。
明日は帰る。……あの猫の肉球が、また汚れていた”




