第二十七話「領地視察」
年末の足音が聞こえ始めた頃――いや、この世界に年末という概念はあったか。とにかく、朝の白い息がすっかり常駐する季節になった頃。
フィロパトール公爵家に、年に一度の恒例行事がやってきた。
領地視察である。
当主ロムルスは年に数回、領都アクトアマルナに赴き、領民の声を聞き、領軍を閲し、帳簿に目を通す。
今までは当主単独の出張だったのだが、今年は違った。
「家族で、行く」
ロムルスの一言で、総出になった。
あの花瓶の一件以来、この当主は「見せる」ということを覚えた。仕事の顔を、家族に。領地の顔を、娘に。
「領地! たび! たびだよ、テト!」
「にゃ」
(旅か)
と言っても、隣接する領地である。
同じ王国の中では近い方だが、貴族領というものは、地図で見るより広い。
馬車で六時間。十分、旅だった。
俺にとっての旅の懸案は、二つ。
昼寝スポットの確保と、情報網の留守番だ。
出立前、大樹の根元でグリッグに確認した。
『――というわけで、留守の間はお前が仕切れ。ベルタの動きは最優先。干し場の裏の「月イチ」があれば、時間と相手の数だけ記録しておけ』
『おうよ。任せとけ』
大樹の根元で、グリッグが髭を撫でた。
頼もしい返事だったが、俺は気づいていた。この老ネズミの髭に、白いものが混じり始めている。
『……で、猫さんよ。頼みがある』
『なんだ』
『ウチの若いのを、一匹、連れてってくれねえか』
『連れて行く? 視察に?』
『外を見せといてやりてえ』
グリッグは、そこで少しだけ言葉を切った。
『……オレも、若くねえ。いつか、誰かに橋を渡さなきゃならねえ。その時に、外を知ってるやつのほうが、橋が太くなる』
『…………』
言葉そのものは比喩だが、グリッグが何を言っているのかは分かった。
『……分かった。どいつだ』
『おい、出てこい』
草陰から、ちょろりと、若いのが出てきた。目が、やけにきらきらしている。
『オレ、ニッキー! ……あ、いや。今日からアルジャ!』
『……どっちだ』
『旅に出るから、旅っぽい名前にした』
(……適当すぎる。名前がファッションの社会は、こういう時もファッションなのか)
『荷物の袋に潜り込んでろ。出歩くな。夜だけだ』
『了解!』
こうして、俺は一匹の若いネズミを連れて旅に出ることになった。
出立の朝。
「テト殿。お支度はよろしいですかな」
セバスが、俺の首輪の具合を確かめていた。金の鈴が、ちりんと鳴る。
と、老執事の手が止まった。
「……テト殿。首輪の寸法が、一年前と同じでございますな」
「にゃ?」
「……いえ、健康そのものなのですが。毛艶は増す一方で、大きさだけが、来た時のまま」
(…………)
その日の朝食後、俺は噴水の水面で自分を確かめた。
黒猫。金色の目。つやつやの毛並み。
そして――一年前と、ほとんど変わらない身体。
(……あれ?)
猫は育つ。
子猫なら半年ほどで、見た目はかなり変わる。
俺は、変わっていない。一年前と、ほぼ同じだ。
(……待て)
パティは今、六歳。学院に入るのが十歳。卒業が十六歳。
俺は当初、そこまで見守ればいいと思っていた。
猫の寿命なら、それくらいは持つ。
だがもし、俺が老けないのなら。
(……卒業まで、という話では、なくなるのでは?)
見守るのは、卒業までではない。……結婚式か。社交界か。その先か。
(……一生、見守る羽目になるのでは……?)
一生、ということはだ。つまり、定年がない。
また定年がない職場に就いた。しかも今回は、本人の体の仕様で。
(…………まあ、いいか)
水面の黒猫が、のんきそうに尻尾を揺らしていた。
終身雇用だと思えば、こんなに安定した案件もない。年金こそ出ないが、銀の食器は生涯保障だ。
領都まで馬車で六時間。
一度、街道の宿場で休憩を挟む。
「テト! みて! うま! うまがいる!」
「にゃ」
(この馬車を引いているのも、俺の肉球に触れさせた、あの馬だ)
パティは初めての長旅に、窓という窓にへばりついていた。
麦畑。村の鐘楼。川沿いの水車。遠くの山並み。
世界は、屋敷の窓の外にも、まだ続いている。
六歳児の地図が、今日、少しずつ広がっている。
荷物の袋の中では、若ネズミが息を潜めていた。
『……すげえ。馬車って、こんな揺れるのな』
(知らなかったのか)
『外って広いんだなあ』
頭上では、ルルの一族が時折、馬車の上空を横切っていた。
王都から続く空の網も、ここまで伸びている。
領都アクトアマルナは、王都とは違う町だった。
王都が「着飾った町」なら、ここは「働いている町」だった。
石畳は粗い。建物は低い。市場からは、焼きたてのパンと、土と、家畜の匂いが混ざって届く。
そして、人々の目が違った。
王都で公爵家の馬車が通れば、人々は爵位に頭を下げる。
ここでは違った。
「今年もお願いします」
「去年は助かりました」
「今年の税は――」
「領軍の件ですが――」
馬車が止まるたび、人がロムルスに声をかけていく。
ロムルスは、その一つ一つに足を止めていた。
王都では、あの男は「公爵」だった。
ここでは――
(……領主なんだな)
爵位ではなく、仕事の顔を持っている。
その背中が、王都で見るより少しだけ大きく見えた。
別邸に着くと、すぐに政務が始まった。
帳簿、報告、陳情。
お当主の仕事は、場所が変わっても畳みかけてくる。
その間、パティはアウレリアとメイドを連れて、町の見学に出た。もちろん、腕の中には俺だ。
市場の通りで、パティは、立ち止まった。
視線の先。
路地の入口に、小さな子供が一人。パティより少し小さいくらいだろうか。硬い黒パンを、両手で抱えるようにして、かじっている。
「……ねえ」
パティが、小さく訊いた。
「あの子、おやつ、ないの?」
メイドが、息を呑んだ。
六歳児の「どうして」は、ときどき、大人が長いあいだ避けてきた場所へ、まっすぐ入っていく。
「あのね、パティ」
答えたのは、アウレリアだった。
「この町には、おやつの時間がない子もいるの」
パティは、黙って聞いていた。
「……あの子にとって、そのパンが、今日の大事なごはんなのよ」
「…………」
パティは、黙っていた。
いつもの「ふーんだ」は、出なかった。
ただ、じっと、路地の子供を見ていた。
それから、自分の持っていた蜂蜜菓子の袋を見て、また路地を見て。
――何かが、頭の中で噛み合っている音がした。音はしないが、俺には聞こえた。
「……うん」
パティは、小さく頷いて、歩き出した。
それだけだった。その日は、それだけだった。
(……それでいい)
急がなくていい。
今日見たものが、今日中に言葉になる必要はない。
その夜、俺は別邸を抜け出した。
領都の路地は、王都より暗い。暗いほうが、猫には都合がいい。
案内は、昼間のうちに目を付けていた。煙突の上に、でかい灰猫が座っていた。
『……あんたが、都の「黒猫」か』
一匹目の声は、屋根の上からだった。
片目の、年季の入った猫。この領都の顔役らしい。
『王都の猫から、話は聞いてるぜ』
『……早いな』
『猫の世界じゃ、評判は足より速い』
(それはそれで怖いな)
『こっちのことを、少し教えてほしい』
『報酬は?』
『都と同じ』
『……話が早いな』
片目の猫は、満足そうに尻尾を振った。
『あと最後に忠告だが、東の広場に腹を空かせた野犬がいる』
『野犬?』
『悪い犬じゃねえ。だが、腹が減ってる。子供に石を投げられて、少し荒れてる』
『分かった。見ておく』
『近づくなよ』
『大丈夫だ。俺は犬派だったんだよ』
『……意味わかんねぇ。ほんと大丈夫ななのか』
『ああ』
俺の尻尾の先端だけが、ゆらりと揺れた。
翌日の昼下がり。
東の広場で、騒ぎが起きた。
「犬だ!」
「逃げろ!」
子供たちの声。
俺は別邸からの道を走っていた。先に情報が届いたのだ。
広場には、痩せた野犬がいた。
その前には、転んだ子供。周囲には、少し離れて見ている子供たち。
そして――
「――パトリシア様!」
パティが走ってきた。
(……やめろ!)
俺も走った。
だが、間に合わない。
パティは倒れた子供の前に立った。小さな背中が震えている。
それでも、退かない。
「パ、パティは、こわくないもん……!」
犬が唸る。
「うちのテトのほうが、こわいもん……!」
(……失礼だな!)
犬が一歩、前へ出た。
俺は犬の横へ回り込むと、収納から干し肉を取り出し、地面に落とす。
犬の鼻が動いた。
もう一度、干し肉を投げる。
犬がそちらへ向きを変えた。
その隙に、俺はパティの足元へ戻った。
犬は干し肉に食いついていた。がつがつと、夢中で食べている。
「…………」
パティが、その姿を見ていた。
骨の浮いた背中。震える肋骨。そして、必死に食べる口。
「……おなか、すいてたの?」
パティは、メイドを振り返った。
「ごはん、あげて」
「パトリシア様?」
「この子、おなかすいてるの」
パティは犬を見た。
「おなかすいてると、おこるの」
少し考えて。
「……パティも、おなかすくと、おこるもん」
広場に、小さな笑いが起きた。緊張が、ほんの少しだけほどける。
パティは、倒れていた子供の手を取った。
「大丈夫?」
子供は泣きながら頷いた。
パティのドレスの膝が、泥だらけになる。
「石、投げちゃだめだよ」
パティは、周りの子供たちに言った。
「おなかがすいてる子に、石を投げたら……そりゃ、おこるよ」
子供たちは、黙って頷いた。
その一部始終を、領民たちは見ていた。
公爵家の、「闇のお嬢様」と噂されていた娘が、泥だらけの膝で、町の子供の手を握っているのを。
その日の夕方。
町には、こんな話が流れたという。
「公爵家のお嬢様は、優しい方だった」
獣たちの間には、別の噂が流れた。
『嬢ちゃんの窮地に、黒猫が現れた』
『あの黒猫は、幸運を呼ぶらしい』
(……そっちは、少し不穏だな)
夜。別邸の窓辺。
「ねえ、テト」
パティが、窓の外の町を見ていた。小さな鼻が、ガラスに触れている。
「あの子たち、パティと、ちがうね」
「にゃ」
「おやつ、ない。ドレス、ない。お屋敷、ない。……ぜんぜん、ちがう」
「…………」
「でもね」
パティは、窓に額をつけて呟いた。
「おなかがすくと、おなじとこが痛いの。こわいとき、おなじとこが震えるの。……ちがうのに、おなじ、なんだね」
(…………)
喉が鳴った。止められなかった。
六歳児の地平が、今夜、音もなく広がった。
(……領地視察の成果としては、十分すぎるな)
「テト、のど、なってる」
「にゃ」
「ふふ。テトも、おなかすいてるときは、おこるの?」
「にゃあ」
(俺は怒らない。蜂蜜を運ぶだけだ)
窓の外では、領都の灯りが、一つずつ静かに落ちていく。
荷物の陰では、若ネズミが震えていた。
『外って……広いな』
『そうだな』
『オレ、もっと見たい』
『なら、よく見ておけ』
『うん!』
橋は、少しずつ太くなる。
――その夜、領都の別邸、一室。
『テト観察日誌』
“領都にて。
一、昨夜、被験体は別邸から消えていた。
朝、何事もなかった顔で戻っていた。肉球が少し汚れていた。
二、本日、東の広場で野犬騒ぎ。
侍女たちの噂では、パティが危険な場所へ飛び込んだため、黒猫が介入したように見えたらしい。
知的労働担当かと思っていたが、認識を改める必要がありそうだ。
三、パティが、領民の子供に菓子を分けていた。町の噂は上々だ。
よくやった、とは思う。ただ……いや、今はその行為を、素直に称賛しておこう。
追記:この町の猫が、僕の部屋の窓から、こちらを見ていた。……気のせいか。この町の猫、皆、こちらを見る”
誤字報告ありがとうございます。
誤字以外にも、名前や設定が微妙に違ってたりする箇所も
こっそり修正してます。
「あれ?」って思って過去エピソードを見直して、
「あ、勘違いか」って思ったそこの貴方。
それは夜中に小人さんが、秘密裏に直していたからです。
★★★★★評価、ブックマークありがとうございます。
わたしの作品の中では、過去一の伸びです。
やる気マンチクリンで、楽しんで頂けるよう続けてまいりますね。




