第二十六話「風の講師と古い本」
魔術の授業に、暗礁が見えた。
「……正直に申し上げます」
月例の教育報告。トライ先生の顔が、いつもより硬かった。
「魔術の実技指導について、わたくしでは限界がございます。専門の講師を、お迎えすべきかと」
「魔術の講師、ですか」
アウレリアが頷く。
「はい。ただ……」
トライ先生は、言いにくそうに言葉を継いだ。
「闇属性の術者は、そもそも少数です。その上、貴族の子女に教えられる程度の技術と、教養と、それから……その、世間体を気にしない胆力を、兼ね備えた方となると」
「見つからない、と」
「……はい」
テーブルの下で、俺は尻尾を巻いた。
闇属性の講師探しが難航する理由は、火を見るより明らかだった。
まず、闇属性の術者自体が少ない。
次に、少ない闇術者のほとんどは、世間の目を避けて細々と生きている。
そして最後に――公爵令嬢に闇を教えた講師、という肩書きは、キャリアの傷になりかねない。
依頼を断る側に、悪意すら要らない。「縁起でもない」の一言で足りる。
技術の空白すら、偏見が作る。知識が伝わらなければ、闇属性は「使えない属性」として固定される。固定されれば、ますます誰も教えない。
負のループの、出来上がりだ。
「……実は」
と、セバスが静かに口を挟んだ。
「王宮より、一通のご返書が届いております。……当方の照会に、お一人、お名前が」
「まあ。どなたが」
「シモン・トト・ムダリス、宮中伯様です」
その名前に、トライ先生が目を見張った。
「……まさか。あの、ムダリス様が」
(……キュウチュウハク?)
初耳の位だった。領地を持たず、王都で国事を担う家系――平たく言えば、国の頭脳職の貴族である。土地の代わりに専門性を預かる、いわば王室の技術顧問団。
そんな重要な職種の人物が、なぜ、子供の家庭教師などに。
数日後、件の人物は、馬車でも扈従もなく、徒歩でやってきた。
老人だった。白髪。小柄。先端に宝石のついた杖。
(…………知ってる顔だ)
覚えがある。一年と少し前、俺がこの屋敷に拾われたばかりの頃、応接間で俺の魔力を測った、あの宮廷魔術師だ。
あの時の判定は“ただの猫。妙に落ち着いた、ただの猫”。
……助かったが、今となっては複雑な再会である。
「や、久しいな、公爵家の諸君」
老人は、へらへらと笑っていた。
元魔法省大臣。現在は相談役として、王宮をふらふらしているらしい。 ふらふらしている、が似合う老人だった。
権威というものを、どこかの棚に置き忘れてきたような軽さがある。
だが目だけは、あの時と同じ。乾いた河床のような、底の見えない目だった。
「闇の嬢ちゃんは、どれかな」
「は、はい! パティです」
「ほう。……ふむ」
老人は、パティの前にしゃがみ込んだ。じっと、目を見る。
それから、にやりと笑った。
「いい目をしとる。……なあ嬢ちゃん。闇は、嫌いか」
「……やみは」
パティは、少し考えて、言った。
「おんなじ、お湯」
「…………ほう」
老人の目が、面白そうに細くなった。
「お湯、か。……いいな、それ。誰に教わった」
「ゆめのなかの、お湯の人」
「夢の中の、お湯の人」
「うん」
「……はっはっは。そうか。お湯の人か」
老人は、腹を抱えて笑った。
その視線の端が、ほんの一瞬だけ、窓際の俺を撫でた。
(……見るな。測るな。俺はクッションだ)
「さて、嬢ちゃん」
老人は何事もなかったように、パティへ向き直った。
「ワシはな、風と水しか使えん」
「……ふーん」
「闇は使えん。だがな――」
老人は杖の先で、床に小さな円を描いた。
「魔術そのものなら教えられる」
杖で円を二つに分ける。
「魔術には、材料がある。形がある。順番がある。力を流す道がある」
そして、円の一部を指した。
「属性が違っても、こういうところは似ておる」
「……おなじ?」
「全部がおなじではない。だが、全部が違うわけでもない」
老人は笑った。
「料理と同じじゃ」
「お料理?」
「そう。魚と肉では味も焼き方も違う。だが、火加減を考える、包丁を使う、順番を守る――そういうところは同じじゃろう」
「……なるほど」
パティが頷く。
「闇の料理は?」
「食べたことがない」
「えー」
「だから、味については教えられん」
老人は肩をすくめた。
「知らんものを知ったふりして教えるほど、ワシは偉くない」
俺は、少しだけ目を細めた。
(……なるほど)
この老人、見た目は軽い。口も軽い。
だが、教える側としての線引きは、かなり厳しい。
初回の授業では、闇の術を一つも教えなかった。
詠唱の構造。
魔法陣の基本。
術式の読み方。
古い術式と新しい術式の違い。
「円は閉じる」
「線は切らない」
「詠唱の途中で意味を変えない」
「術式の意味が分からんものは、使うな」
地味だった。とにかく地味だった。
だが、地味な授業ほど、後になって効いてくる。
俺は前世で、それを嫌というほど知っている。
基礎研修は退屈だ。
安全確認も退屈だ。
帳票の確認も退屈だ。
だが、それを省いた会社は、だいたい後で徹夜する。
(……土台を作るタイプか)
シモンという老人。少なくとも、悪くない。
帰り際、老人は玄関ホールで足を止め、振り返った。
誰もいない廊下。
柱の上で毛づくろいをしていた俺と、目が合った。
「……どこかで、会うたかな、おぬし」
(会ったよ。一年前だ。お前が「ただの猫」って判定した)
「にゃ」
「ふむ。……まあ、いい」
老人は、ひらひらと手を振って、歩き去った。
去り際、誰にともなく、ぽつりと。
「――お湯の人、か。……はてさて」
(…………)
背筋の毛が、一枚だけ、逆立った。
あの老人は、気づいているのかいないのか。
一年前もそうだった。測定では「ただの猫」。だが帰り際の目は、ただの猫を見る目ではなかった。
(……見逃されているのか。泳がされているのか)
分からない。分からないが、一つだけ分かっている。
あの老人が教師につく限り、パティの魔術は、少なくとも「間違った常識」では育たない。
……それでいい。今は、それでいい。
その週の夕食の席で、話題は属性になった。
「シモン先生って、風と水なんだって。二つ!」
「ふむ。二属性は、天才と呼ばれる領域だな」
ロムルスが頷いた。あの当主の属性は、火と風だという。領軍を率いる男らしい、攻撃的な組み合わせだった。
「アウにーには?」
「父上と同じだ。火と……風が少しだ」
「ユリにーには?」
「……風」
ユリウスが、箸を止めずに答えた。
(……あれ?)
俺は内心で首を傾げた。
てっきり、アウグストは土だと思っていた。あの堅物ぶり、磐石の歩き方、マニュアルへの忠誠。土以外にあるまじき土の男だと。
ユリウスは水だと思っていた。塔に籠る、じめじめした研究肌。水だろう、絶対に水だと。
(……両方、外れか)
思い込みというのは、恐ろしい。
勝手に像を結び、勝手に属性を当てはめ、勝手に納得している。
そういえば前世でも、こういうのはあった。
血液型で性格を決めつける、あれだ。
「A型だから几帳面」
「B型だからマイペース」
遊びだと分かっていても、「やっぱりA型だね」と言われた時には、じんわりとイラッとしたものだ。
(……しかも、この世界の鑑定は)
神殿の水晶は、その日の心身の状態で結果が揺れるという。曖昧な物差しで測られた一文字が、その子の「らしさ」として貼りつく。
貼りつけられた側は、そこから逃げられない。
……風と鑑定されたユリウスは、本当に風だけなのか。
塔の部屋で俺が見た魔方陣の、あの湿度の高い失敗の煙は、本当に、風の失敗だったのか。
(……いや。深追いはするな。人の属性は、人の領分だ)
俺は、自分の前足を見た。
誰にも測らせない属性を持つ猫が、人の属性の真偽を詮索してどうする。
詮索はしない。
ただ、帳面の端に、小さく記すだけだ。
項目名:『鑑定は、すべてを測るわけではない』。
その夜。俺は書庫に向かった。
シモンの授業を聞いて、気になることが一つあった。
老人は、古い術式について話した。
「今の術式と、五十年前の術式は、同じ魔法でも書き方が違う」
そう言っていた。
つまり――古い魔術の本を探せば、現在の魔術では使われなくなった術式が残っている可能性がある。
ならば、探す価値はある。
『猫さん、今日はどこだ?』
梁の上から、グリッグが聞いた。
『魔術書の棚だ』
『また難しい本かよ』
『今日は古いやつだ』
『古い?』
『使われていない。誰も読まない。埃をかぶっている』
『それなら得意だ』
グリッグが胸を張った。
『オレたち、埃の多いところは詳しいぜ』
(……頼もしいのか、頼もしくないのか)
俺は書庫の奥へ進んだ。公爵家の書庫は広い。
五百年続く家ともなれば、本の数だけで小さな図書館が作れる。
それぞれの魔術書が属性ごとに並んでいる。
だが――闇だけが、少ない。
ないわけではない。だが、明らかに扱いが違う。
火や風や土の本も、手に取りやすい。
(……ない、んじゃない)
俺は棚の本を一冊ずつ確認した。
そして、魔術書の分類に使われている古い記号に気づいた。
現在の分類から外された術式。
廃式。旧式。禁式。
そういう記号のついた本が、棚のさらに奥にまとめられている。
『グリッグ』
『ん?』
『この辺り、最近、人が触った形跡はあるか?』
『……ちょっと待て』
グリッグが棚の隙間へ潜り込む。
『……埃が厚い』
『どれくらいだ』
『パンにしたら、五匹は満足できるくらい』
『参考にならん』
『でもな』
グリッグが鼻を動かした。
『この一角だけ、変だ』
『何が?』
『埃が積もってるのに、棚の奥だけ少し薄い』
俺は目を細めた。
見えない手を伸ばし、本を一冊ずつ動かす。
さらに奥、壁との隙間そこに――何かが引っかかった。
ゆっくり引き出す。
ゴトリ。
一冊の本が落ちた。
『うわっ』
グリッグが跳んだ。
表紙の革は煤け、金具は錆び、 背表紙の文字は、ほとんど消えていた。
だが、頁を開いた瞬間、俺は息を止めた。
魔法陣――見たことのない構造だった。
円の中に複数の切断線。現在の術式とは違う記法。余白には、細かな注意書き。
――闇属性。
(……あった)
闇の術式だ。しかも、かなり古い。俺は頁をめくった。
術式。
詠唱。
使用条件。
失敗例。
そして最後に――署名らしきもの。
だが、そこも(かす)擦れていた。読める文字は、ほんの一部。
最後に残っていたのは、
――『……ト』
だけだった。
(…………)
『セト』その言葉が、頭をよぎった。
フィオメル・セト・フィロパトール。
消えた王弟、闇属性、古い術式――そして、この署名。
(……偶然だ)
そう考える。いや、考えなければならない。
たった一文字だ。これだけで、セトだと決めつけるのは馬鹿げている。
だが、俺は本を閉じなかった。
しばらく、その一文字を見つめていた。
『猫さん?』
『……何でもない』
『その本、借りるのか?』
『ああ』
『返す?』
『……もちろん』
嘘ではない。ただし、返す時期は決めていない。
俺は本を収納に仕舞った。
そして、帳面の項目に追記する。
項目名――『消えた王弟』。
追記。
古い闇属性術式の資料を発見。
署名の末尾に「ト」。
フィオメル・セトとの関連――未確認。
以上。
(……まだだ)
証拠が足りない。一文字だけで物語を作るな。
それは、歴史を見る人間が一番やってはいけないことだ。
物語は、空白を埋める。
だからこそ、空白には注意しなければならない。
俺は本を抱え直した。
急ぐ必要はない。パティの学院入学まで、まだ四年ある。
それまでに、この本のことも、セトのことも、消えた王のことも。少しずつ調べればいい。
もちろん。
昼寝を邪魔しない範囲で。
――その夜、西棟の塔。
『テト観察日誌』
“シモン宮中伯殿の初回授業を、廊下から聞いた。……通りかかった。
あの老師が『手順書の読み方』だけを教えて帰った。……慧眼だ。属性の術を教えない。術の型を教えた。あの教え方が一番、遠回りで、一番、速い。
僕も習いたかった。……これは、日誌には書くまいと思ったのだが、書いてしまった。消すのも癪なので、そのままにする。
夜、書庫へ行った。
最深部の棚の裏……積まれた箱の隙間の埃が不自然に払われ、四角い『抜け』ができていた。何かが、そこから抜き取られた痕跡だ。……棚の裏、だと?
どうやって取った。どうやって見つけた。なぜ、あんな場所を知っている。
そして何より――あいつは、棚の裏に本があることを、『探して』いた。
最初から、そこに何かあると知っていたような探し方だった。
……あの猫は、この家の書庫で、何を、探している”




