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過労死社畜、悪役令嬢の飼い猫に転生する ~美人な飼い主にモフられながら、破滅フラグはチートでこっそりへし折ります~  作者: 真野真名
第二章 猫の手は借りられないので猫が動く

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第二十五話「魔法の家庭教師。ただし猫」




 トライ先生の言葉は、正しかった。


 正しかったのだが、正しさというものは、届くのが遅い。

 届いたところで、それが身体にまで染み込むには、もっと時間がかかる。


 あの日、魔術の授業は「成功」で終わった。

 魔石に触れれば、黒い魔力が滲み出る。トライ先生は、それを見ても顔色を変えなかった。


「怖いものではありません」


 そう言ってくれた。


 パティも、「ほんと?」と二度、確かめた。


「本当です」


 最後には、笑った。


 だから、俺も大丈夫だと思った。


 ――だが。




 翌日の自習時間。


「パトリシア様。昨日の復習を。魔石に触れてみてください」


「……あとで」


「今、やりましょう」


「……ねむい」


 パティは机に顔を伏せた。


 しかも、顔の向きは魔石と反対側だった。


(……来たな)


 窓際のクッションで、俺は耳を立てた。


 これはサボりではない。サボりなら、パティはもっと楽しそうに逃げる。

 今のこれは――逃げたいのだ。


 昨日の魔石を、まだ怖がっている。

 頭では分かっているし、トライ先生の言葉も、ちゃんと聞いていた。


“闇は悪ではない”と教典にも、そう書いてある。先生も、そう言った。

 パティも頷き、納得した顔をしていた。


 だが、納得と、腹落ちは違う。


 しかも昨日の授業が終わったあと、俺は聞いてしまった。

 廊下の向こうで、侍女たちが小声で話していた。


「……お嬢様、本当に闇属性だったんですって」


「声が大きいわよ」


「ごめんなさい。でも……」


「昔話では、闇の魔法使いって、やっぱり――」


 そこで声が途切れた。


 パティが、廊下の角から顔を出していたからだ。


「……なに?」


「い、いえ! なんでもございません!」


 侍女たちは慌てて頭を下げた。


 パティは笑っていた。


「そっか」


 それだけ言って、通り過ぎた。


 だが、俺は見ていた。


 パティの歩幅が、ほんの少しだけ速くなったことを。


(……なるほど)


 本人が忘れようとしても、周りが忘れさせてくれない。

 悪意があるわけではない。だからこそ、厄介だった。


 誰か一人が「闇は悪だ」と教えたわけではない。

 昔話。噂話。大人たちの微妙な表情。そういうものが少しずつ積み重なって、「闇って、怖いものなのかもしれない」という感覚を作っていく。


 トライ先生が言った通りだ。

 教典よりも、物語の方が、人の身体には残る。


 そして今、パティの身体には、その物語が残っている。


(……さて)


 俺は尻尾を一度だけ振った。


 俺には教鞭がない。説明する口もない。できることは、限られている。

 ならば、できることをやるしかない。




 その夜。


 パティが眠ったあと、俺は枕元に座った。

 いつもの場所だ。人の体温が、一番よく伝わってくる。


 すぅ、すぅ。


 寝息は穏やかだった。

 だが、眉間にはほんの少しだけ力が残っている。


(……よし)


 俺は喉を鳴らした。


 ごろごろ。


 ごろごろ。


 猫の喉の音は、妙に人を安心させる。

 少なくとも、この一年で、それだけは実証済みだ。


 俺はパティの頭に、自分の頭をそっと寄せた。


(……怖くないぞ)


 言葉にはしないし、出来ない。

 言葉を送れるかどうかなど、俺には分からない。


 そもそも、人間にまでネズミや鳥たちのように意思が通じる保証などない。


 届くかどうかは、分からない。

 届いたとして、意味をなすかどうかも、分からない。


 だが、届かなくても、損はない。

 検証コストはゼロ。期待効果は、小さくない。


 ――やってみる価値は、ある。研究とは、そういうものだ。


 喉の音を、絶やさないように。呼吸に乗せるように。温かい身体を寄せ、喉を鳴らす。


 そして、俺の頭の中では、昼間の言葉を繰り返していた。


 闇は悪ではない。

 属性は、悪意ではない。


(……そうだな)


 『水』を温めれば『湯』になる。もっと温めれば『湯気』になる。

 逆に冷やせば『氷』となる。


 でも、それは全て『H₂O』だったりする。

 誰もお湯は温かいから正義、氷は冷たいから悪なんて思わない。


(……そういうことなんだろうな)


 同じ水をどう扱うか、どういう性質を持たせるか。そして何に使うか。


 それで名前が変わる。


 ならば、魔力も同じではないのか。


 光だろうが、闇だろうが。


 魔力にイメージを乗せる。ただそれだけで変わる。

 それを使う人間まで、善悪に分ける必要はない。


(……まあ、俺は魔術師じゃないから、知らんけど)


 考えているうちに、パティの呼吸がゆっくりになった。


 俺はそのまま、隣で喉を鳴らし続けた。


 しばらくして、パティの眉間から力が抜けた。


(……それでいい)


 俺は目を閉じた。


 説明できなくてもいい。今日、分からなくてもいい。明日、また魔石を怖がってもいい。


 繰り返せばいい。怖くないという経験を、一つずつ増やしていけばいい。


 それが、いちばん確実な方法だ。


 俺はそのままパティに身を寄せ、温かな微睡のなかで、あくびをひとつ。




 翌朝。


「テト!」


「にゃ!?」


 目を開けると、パティの顔が至近距離にあった。


「ねえねえ、聞いて!」


「にゃ……」


 朝から元気である。


「パティ、変な夢を見たの!」


(……夢?)


「お湯が出てきたの」


「…………にゃ」


「おんなじお湯なの。黒くても白くても、おんなじお湯なんだって」


 俺は、しばらく固まった。


(…………?)


 届いた。


 ――とは、思わない。


 たぶん違う。


 昨日までに聞いた話と、俺が隣で鳴らしていた喉の音と、パティ自身の記憶が、寝ている間に混ざっただけだ。


 夢なんて、そんなものだ。


 人間の頭の中で勝手に材料を混ぜて、勝手に意味を作る。


 だが。


「だからね」


 パティは、嬉しそうに笑った。


「パティのやみも、わるくないの」


「…………」


 俺は前足を舐めた。


(……それでいい)




「パトリシア様。復習の時間です」


 午前の授業。


 トライ先生が、魔石を机の上に置いた。


 今日のパティは、魔石から目を逸らさなかった。


 じっと見ている。


 怖いものを見る目ではない。少しだけ、不思議なものを見る目だった。



「ねえ、せんせ」


「はい」


「魔法って、みんな同じなの?」


 トライ先生の手が、わずかに止まった。


「……どなたから、そのお話を」


「ゆめ」


「夢、ですか」


「うん。ゆめのなかの、お湯の人が言ってた」


(お湯の人)


 窓際で、俺は盛大にむせた。誰がお湯の人だ。湯けむりの精か。


「……夢の、お話でしたか」


 トライ先生は、少しだけ困ったように、しかし、丁寧に答えた。


「正確には、魔術には属性というものがございまして、ご自分の属性のものだけが……」


「でも、ゆめではできたの」


「……できましたか」


「パティ、やみの魔法、こわくないもん。だって、おんなじお湯だもん」


「……とても、素敵な夢でしたね」


「うん!」


 トライ先生は、しばらく、黙っていた。

 それから、教本を閉じて静かに言った。


「ただし、魔術については、もう少し正確に学びましょう」


「はーい」


「魔法は、属性によってそれぞれ性質が異なります。ですが――」


 トライ先生は、魔石をパティの前へ置いた。


「性質が違うこととが、善悪に繋がることはありません」


「…………」


「そこを忘れないでおいてください」


 パティは、魔石にゆっくりと手を伸ばした。

 小さな指が触れる。


 黒い霧がすっと、滲み出た。


 昨日より、早く。昨日より、綺麗に。


 そして今日の黒は、昨日の黒より、少しだけ柔らかく見えた。


「……できた」


「お見事です」


「こわくないもん。……おんなじお湯だもん」


 パティは、笑った。あの神殿以来、初めての、自分の属性の話で笑う顔だった。


(……よし)


 俺は窓際で、ゆっくりと瞬きをした。




(……お湯の人か)


 肩書きが、また一つ増えた。


 元・リコリス製薬、リンス班研究主任。

 現・公爵家の黒猫。


 そして――夢の中の、お湯の人。




 その夜。


 パティが眠ったあと、俺はまた枕元に座った。

 今日は、眉間に力が入っていない。

 俺は何もせず、ただ隣に丸くなった。


 グリッグから報告のあったベルタの一件は、その後進展なし。

 備えはするが、心配のしすぎは良い結果を生まない。今夜の俺の最優先タスクは、のんびり寝ること。


 ごろごろ。


 パティの手が、眠ったまま俺の背中に触れた。


 それだけだった。





 ――その夜、西棟の塔。


『テト観察日誌』


“本日はあまり出歩かなかった。

 数日来、気にかかる事があったせいで、動き回る気力がわかなかったのだ。

 ――代わりに、塔の窓から見えたものだけを書いておく。

 夜。パティの部屋の窓に、小さな灯りがともっていた。

 妹が、両手を拡げ黒猫に何かを喋っていた。隣で、黒猫はただ喉を鳴らしているだけだった。


 風に乗って何度も「……お湯が」と聞こえた気がした。


 よく分からない。分からないが、あの部屋の窓の灯りは、いつもより少し、温かく見えた”




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