第二十五話「魔法の家庭教師。ただし猫」
トライ先生の言葉は、正しかった。
正しかったのだが、正しさというものは、届くのが遅い。
届いたところで、それが身体にまで染み込むには、もっと時間がかかる。
あの日、魔術の授業は「成功」で終わった。
魔石に触れれば、黒い魔力が滲み出る。トライ先生は、それを見ても顔色を変えなかった。
「怖いものではありません」
そう言ってくれた。
パティも、「ほんと?」と二度、確かめた。
「本当です」
最後には、笑った。
だから、俺も大丈夫だと思った。
――だが。
翌日の自習時間。
「パトリシア様。昨日の復習を。魔石に触れてみてください」
「……あとで」
「今、やりましょう」
「……ねむい」
パティは机に顔を伏せた。
しかも、顔の向きは魔石と反対側だった。
(……来たな)
窓際のクッションで、俺は耳を立てた。
これはサボりではない。サボりなら、パティはもっと楽しそうに逃げる。
今のこれは――逃げたいのだ。
昨日の魔石を、まだ怖がっている。
頭では分かっているし、トライ先生の言葉も、ちゃんと聞いていた。
“闇は悪ではない”と教典にも、そう書いてある。先生も、そう言った。
パティも頷き、納得した顔をしていた。
だが、納得と、腹落ちは違う。
しかも昨日の授業が終わったあと、俺は聞いてしまった。
廊下の向こうで、侍女たちが小声で話していた。
「……お嬢様、本当に闇属性だったんですって」
「声が大きいわよ」
「ごめんなさい。でも……」
「昔話では、闇の魔法使いって、やっぱり――」
そこで声が途切れた。
パティが、廊下の角から顔を出していたからだ。
「……なに?」
「い、いえ! なんでもございません!」
侍女たちは慌てて頭を下げた。
パティは笑っていた。
「そっか」
それだけ言って、通り過ぎた。
だが、俺は見ていた。
パティの歩幅が、ほんの少しだけ速くなったことを。
(……なるほど)
本人が忘れようとしても、周りが忘れさせてくれない。
悪意があるわけではない。だからこそ、厄介だった。
誰か一人が「闇は悪だ」と教えたわけではない。
昔話。噂話。大人たちの微妙な表情。そういうものが少しずつ積み重なって、「闇って、怖いものなのかもしれない」という感覚を作っていく。
トライ先生が言った通りだ。
教典よりも、物語の方が、人の身体には残る。
そして今、パティの身体には、その物語が残っている。
(……さて)
俺は尻尾を一度だけ振った。
俺には教鞭がない。説明する口もない。できることは、限られている。
ならば、できることをやるしかない。
その夜。
パティが眠ったあと、俺は枕元に座った。
いつもの場所だ。人の体温が、一番よく伝わってくる。
すぅ、すぅ。
寝息は穏やかだった。
だが、眉間にはほんの少しだけ力が残っている。
(……よし)
俺は喉を鳴らした。
ごろごろ。
ごろごろ。
猫の喉の音は、妙に人を安心させる。
少なくとも、この一年で、それだけは実証済みだ。
俺はパティの頭に、自分の頭をそっと寄せた。
(……怖くないぞ)
言葉にはしないし、出来ない。
言葉を送れるかどうかなど、俺には分からない。
そもそも、人間にまでネズミや鳥たちのように意思が通じる保証などない。
届くかどうかは、分からない。
届いたとして、意味をなすかどうかも、分からない。
だが、届かなくても、損はない。
検証コストはゼロ。期待効果は、小さくない。
――やってみる価値は、ある。研究とは、そういうものだ。
喉の音を、絶やさないように。呼吸に乗せるように。温かい身体を寄せ、喉を鳴らす。
そして、俺の頭の中では、昼間の言葉を繰り返していた。
闇は悪ではない。
属性は、悪意ではない。
(……そうだな)
『水』を温めれば『湯』になる。もっと温めれば『湯気』になる。
逆に冷やせば『氷』となる。
でも、それは全て『H₂O』だったりする。
誰もお湯は温かいから正義、氷は冷たいから悪なんて思わない。
(……そういうことなんだろうな)
同じ水をどう扱うか、どういう性質を持たせるか。そして何に使うか。
それで名前が変わる。
ならば、魔力も同じではないのか。
光だろうが、闇だろうが。
魔力にイメージを乗せる。ただそれだけで変わる。
それを使う人間まで、善悪に分ける必要はない。
(……まあ、俺は魔術師じゃないから、知らんけど)
考えているうちに、パティの呼吸がゆっくりになった。
俺はそのまま、隣で喉を鳴らし続けた。
しばらくして、パティの眉間から力が抜けた。
(……それでいい)
俺は目を閉じた。
説明できなくてもいい。今日、分からなくてもいい。明日、また魔石を怖がってもいい。
繰り返せばいい。怖くないという経験を、一つずつ増やしていけばいい。
それが、いちばん確実な方法だ。
俺はそのままパティに身を寄せ、温かな微睡のなかで、あくびをひとつ。
翌朝。
「テト!」
「にゃ!?」
目を開けると、パティの顔が至近距離にあった。
「ねえねえ、聞いて!」
「にゃ……」
朝から元気である。
「パティ、変な夢を見たの!」
(……夢?)
「お湯が出てきたの」
「…………にゃ」
「おんなじお湯なの。黒くても白くても、おんなじお湯なんだって」
俺は、しばらく固まった。
(…………?)
届いた。
――とは、思わない。
たぶん違う。
昨日までに聞いた話と、俺が隣で鳴らしていた喉の音と、パティ自身の記憶が、寝ている間に混ざっただけだ。
夢なんて、そんなものだ。
人間の頭の中で勝手に材料を混ぜて、勝手に意味を作る。
だが。
「だからね」
パティは、嬉しそうに笑った。
「パティのやみも、わるくないの」
「…………」
俺は前足を舐めた。
(……それでいい)
「パトリシア様。復習の時間です」
午前の授業。
トライ先生が、魔石を机の上に置いた。
今日のパティは、魔石から目を逸らさなかった。
じっと見ている。
怖いものを見る目ではない。少しだけ、不思議なものを見る目だった。
「ねえ、せんせ」
「はい」
「魔法って、みんな同じなの?」
トライ先生の手が、わずかに止まった。
「……どなたから、そのお話を」
「ゆめ」
「夢、ですか」
「うん。ゆめのなかの、お湯の人が言ってた」
(お湯の人)
窓際で、俺は盛大にむせた。誰がお湯の人だ。湯けむりの精か。
「……夢の、お話でしたか」
トライ先生は、少しだけ困ったように、しかし、丁寧に答えた。
「正確には、魔術には属性というものがございまして、ご自分の属性のものだけが……」
「でも、ゆめではできたの」
「……できましたか」
「パティ、やみの魔法、こわくないもん。だって、おんなじお湯だもん」
「……とても、素敵な夢でしたね」
「うん!」
トライ先生は、しばらく、黙っていた。
それから、教本を閉じて静かに言った。
「ただし、魔術については、もう少し正確に学びましょう」
「はーい」
「魔法は、属性によってそれぞれ性質が異なります。ですが――」
トライ先生は、魔石をパティの前へ置いた。
「性質が違うこととが、善悪に繋がることはありません」
「…………」
「そこを忘れないでおいてください」
パティは、魔石にゆっくりと手を伸ばした。
小さな指が触れる。
黒い霧がすっと、滲み出た。
昨日より、早く。昨日より、綺麗に。
そして今日の黒は、昨日の黒より、少しだけ柔らかく見えた。
「……できた」
「お見事です」
「こわくないもん。……おんなじお湯だもん」
パティは、笑った。あの神殿以来、初めての、自分の属性の話で笑う顔だった。
(……よし)
俺は窓際で、ゆっくりと瞬きをした。
(……お湯の人か)
肩書きが、また一つ増えた。
元・リコリス製薬、リンス班研究主任。
現・公爵家の黒猫。
そして――夢の中の、お湯の人。
その夜。
パティが眠ったあと、俺はまた枕元に座った。
今日は、眉間に力が入っていない。
俺は何もせず、ただ隣に丸くなった。
グリッグから報告のあったベルタの一件は、その後進展なし。
備えはするが、心配のしすぎは良い結果を生まない。今夜の俺の最優先タスクは、のんびり寝ること。
ごろごろ。
パティの手が、眠ったまま俺の背中に触れた。
それだけだった。
――その夜、西棟の塔。
『テト観察日誌』
“本日はあまり出歩かなかった。
数日来、気にかかる事があったせいで、動き回る気力がわかなかったのだ。
――代わりに、塔の窓から見えたものだけを書いておく。
夜。パティの部屋の窓に、小さな灯りがともっていた。
妹が、両手を拡げ黒猫に何かを喋っていた。隣で、黒猫はただ喉を鳴らしているだけだった。
風に乗って何度も「……お湯が」と聞こえた気がした。
よく分からない。分からないが、あの部屋の窓の灯りは、いつもより少し、温かく見えた”




