第十ハ話「隠し事と小鳥」
事件は、午後のおやつの後に起きた。
場所は、東棟の応接サロン。
雨の日の運動不足解消と称して、パティが俺を追いかけ回していたのである。正確には、俺が「追いかけさせてあげていた」のだ。
猫は逃げるフリをして、人間の運動量を稼がせる。これは立派な健康管理業務だ。飼い主の運動不足は、飼い猫の怠惰に直結する。
「まったー! ネコチャン、まってー!」
「にゃ」
カーテンの陰から、椅子の下へ。俺は鮮やかに身を翻した。
――その時だった。
がちゃん、と。
乾いた音が、部屋に響いた。
「…………あ」
パティが、飾り棚の前で、固まっていた。
棚の縁に、袖が触れている。
そして、床には――
青いガラスの、小鳥の置物。
片方の翼が、根元から、綺麗に折れていた。
(……あー。割れたな)
あれは確か、アウレリアが応接サロンの棚に、ずっと鎮座していた小鳥。青くて、細くて、いかにも繊細なやつ。
「……………………」
パティの顔が、みるみる青くなっていく。
青い小鳥より青く。
(まあ、落ち着け。置物が一つ割れたくらいで、公爵家は揺るがない。謝れば済む話だ)
俺がそう思った、その時。
パティの口から、小さな声が漏れた。
「…………だめ……だめだよぉ……」
その声の調子に、俺は首を傾げた。
ただの焦りではなかった。――怯えだ。
「べ、ベルタに……見つかったら……『お転婆』『行儀が悪い』『令嬢のすることではない』って……『お父様の面目』って……また、ずっと、ずぅっと……」
(……ああ、そういうことか)
この子の頭の中には、あの侍女頭の声が住みついている。何かを失敗するたび、本人がいなくても叱られる。
本人がいなくても、「こう言われる」が分かってしまう。
――三年分の指導という名の恐怖が、もう一人のベルタになって、パティの中にいる。
「かくさなきゃ……かくさなきゃ……」
パティが、折れた小鳥を両手に拾い上げた。
そして、呟いた。
「……ねえ、おねがい。……かくれて。……だれにも、みつからないで」
――その瞬間だった。
部屋の、隅の。
カーテンの陰の、薄暗がりが。
するすると、伸びた。
(……!?)
影が、動いた。
夕方の薄明かりの中で、棚の影、椅子の影、カーテンの影が、意志を持った蛇のように床を這い、パティの手の中の小鳥に、するすると絡みついた。
パティの手の中で、小鳥は、影に包まれた。
見えなくなった。いや、正確には――影が小鳥の形に貼りついて、棚に戻した時、小鳥は「そこにないもの」として、棚の陰に紛れ込んだ。
ただし。
(……雑だな)
影の貼り方が、雑だった。
継ぎ目が見える。影の色が、周囲より半段階だけ濃い。よく見れば、棚のあの一角だけ、妙に暗い。まるで、そこだけ夜が早く来たみたいに。
魔術としては、即席もいいところだ。
――だが、魔術として、成立している。
「…………ぇ」
パティ本人が、一番驚いていた。
自分の手と、棚と、影を、何度も見比べている。
「……いまの、なに……?」
(それを聞くか。お前がやったんだよ)
パティは、しばらく固まっていた。
それから、わなわなと震えながら、部屋を出ていった。逃げるように。足早に。
残された俺は、棚の「早すぎる夜」を見上げた。
(……整理しよう)
観察事項その一。
パティは、無意識に魔術を発動させた。
観察事項その二。
発動したのは、闇の力。そして発動の引き金は、「隠したい」という気持ちだった。
観察事項その三。
術は即席で、精度は低い。隠蔽としては、素人の仕事だ。
考察。
(無意識での闇属性の発動。『闇』判定が引き金となっているのか……単純に属性はないとは言い切れないのか。イメージだけで……)
そしてその力が、この子の場合、怯えと一緒に出てきた。
(……まずい。これは、まずい)
別の意味で、俺は背筋を冷やした。
魔術そのものは悪くない。力に善悪はない。
まずいのは、これが「隠し事の成功体験」になることだ。
壊した。隠した。バレなかった。
この三段が一度でも成立すれば、人間は学ぶ。子供は特に。次も隠せる、と。
そしてこの世界は、「闇属性の令嬢が、何かを隠していた」という話に、異常に弱い。
あの神殿の空気で、俺は学んだ。事実がどうであれ、「闇」と「隠し事」が組み合わさった瞬間、世間の物語は勝手に完成する。
(……この「早すぎる夜」は、今日のうちに、夜明けさせなきゃならない)
だが、俺より先に見つけた者がいた。
夕刻。巡回の時間。
ベルタが、応接サロンに入ってきた。
この女の巡回は、埃を探すためのものだ。目つきが、検品だ。そして検品の目は、案の定、棚の一角で止まった。
「…………」
ベルタは、棚の前に立った。
「早すぎる夜」を、じっと見ている。
長い指が、影の継ぎ目に触れた。
ひやり、と。闇に触れた指先を、ベルタはゆっくりと引っ込め、それから、懐から例の革表紙の帳面を取り出した。
その時の、あの女の顔を、俺は天井裏の隙間から見ていた。
見ていて、寒くなった。
驚きは、一瞬だけだった。
その後に浮かんだのは――安堵に似た、薄い笑みだった。
「……やはり」
小さな、誰にも聞かせない声。
「これは闇の“隠蔽”魔法」
帳面に、羽ペンが走る。
「……盗みと嘘と隠し事は、闇の性。放っておけば、いずれこの家を、奥様を、影から蝕む。……正さなければ。私が、正しく、導かなければ」
(……出たな。「思い込みの正義」)
あの女の中では、もう物語が完成している。
今日、棚の上にできた小さな影は――その物語にとって、都合のいい証拠だった。
だから、片付けない。通報もしない。――置いておく。使える日まで、置いておく。
(……読めた)
読めた上で、俺は、静かに踵を返した。
――筋書きは、破ればいい。
方法は一つ。あの女が「発見」する前に、パティが、自分から名乗り出ることだ。
たった、それだけのことだ。
たったそれだけのことが、この令嬢には、この家で一番難しい。
夜。
俺は、応接サロンに忍び込み、見えない手で小鳥を影から回収した。闇の膜は、触れるとふにゃりと解けた。術者本人の気が抜けているせいか、解除に手間はかからなかった。
小鳥を口にくわえて、廊下を歩く。
『……猫さん』
壁の穴から、若いネズミが顔を出した。たぶんゼリーだ。
『え! 猫さん、鳥、獲った……?』
『置物だ』
『置物……?』
『獲物ではない。……証拠品だ』
『証拠品を、くわえて歩くの……?』
『……細かいことは聞くな』
パティの部屋に潜り込み、枕元に、小鳥を置いた。
それから、布団の上に座って、待った。
しばらくして、パティが寝返りを打って――目を開けて――小鳥を見て、跳ね起きた。
「……っ!?」
隠したはずの小鳥が、枕元にある。
五歳児の顔が、恐怖と困惑で歪む。俺は、じっと座っていた。ただ、座って、彼女を見ていた。
「……ネコ、チャン……?」
「にゃ」
(俺だ。運んできた。……さあ、飼い主よ。ここからが、お前の仕事だ)
パティは、小鳥を見た。俺を見た。また小鳥を見た。
そして、小さな声で、話し始めた。猫は話を聞く生き物だ。黙っていて、目を合わせていて、たまに瞬きする。人間は、猫にだけは本音を話せる。俺は今、この屋敷で一番性能のいい懺悔室だった。
「……パティ。あれ、かくしたの」
「……にゃ」
「こわしたのは、事故だもん。……でも、かくしたのは、事故じゃないの」
「…………」
「ベルタにね」
そこで、少しだけ声が震えた。
「このあと、会ったの」
(……ほう)
「『奥様の小鳥のこと、私は存じておりますのよ』って」
パティは俯いた。
「『盗みと隠し事は、闇の性ですもの』って」
小さな手が、小鳥を強く握る。
「『あなた様は、本当に、闇にふさわしいお育ちで』って……」
(…………)
「『このまま黙っていても、いずれ皆様がお気づきになります』って……」
(…………)
天井裏の俺が聞いた独白より、そっちの方が、よっぽど悪質だった。
属性と人格を結びつけて、五歳児に「あなたは闇らしい子です」と宣告する。そして恐怖を置き土産に、選択を宙吊りにする。あとは怯えた子供が、自分から指導者を頼ってくるのを待てばいい。
――あの女の筋書きとは、そういうものだ。白状さえ、あの女の手柄にする。
「……パティね、こわいの」
パティは、膝を抱えた。
「かくしたの、ばれたら、みんなが『やっぱり闇の子だ』って言うの、こわいの。……でもね。ネコチャン。……パティ、もっとこわいことがあるの」
「……?」
「このまま、かくし続けるの、うまくなっちゃうのが、いちばん、こわい」
(…………)
俺は、目を見開いた。
――この子は、分かっている。
五歳のこの子は、たった一人で、夜の布団の上で、一番大事なことに気づいてしまった。
隠すことが上手な子供になること。
それが、一番怖いことだと。
「……ネコチャン。パティ、あした、おかあさまに言う。……こわしたこと。かくしたこと。ぜんぶ」
小鳥を、両手で包んで。
泣きそうな顔のまま、しかし、はっきりと言った。
「怒られるのは、一回でいいもん。……かくすのは、ずっと続くから、やだ」
(……一回でいい)
思わず、喉が鳴った。ごろごろと。猫が安心した時の音だ。
(いいことを言うじゃないか、飼い主)
怒られるのは一回でいい。
そうだ。隠し事の利子は、雪崩式に増える。
誰に教わったんだ。
――いや。教わったんじゃない。この子の中に、最初からあったのだ。
「……ネコチャンが、これ持ってきたから」
パティが小鳥を見る。
「……ありがと」
「にゃ」
(どういたしまして)
そして俺は思った。この子は弱いんじゃない。弱くされているだけだ。
翌朝。
パティは、ベルタの朝の支度が始まる前に、アウレリアの部屋の扉を叩いた。
両手に、青い小鳥。翼の折れた、小鳥。
「おかあさま。……お話が、あります」
朝の光の中で、パティは、頭を下げた。
「これ……わたしが、こわしました」
パティの声が震える。
「ネコチャンと、かけっこしてて……それで、それで……」
「……かくしました。こわくて」
「……ごめんなさい」
部屋の中が、静かになった。
俺は廊下の柱の陰から、一部始終を見ていた。朝食の支度の気配に紛れて、柱の陰に収まるのは、猫の朝の日課である。
「…………」
アウレリアは、小鳥を受け取った。
折れた翼を、しばらく見ていた。それから、静かに言った。
「……こわしたことより、かくしたことの方が、いけなかったわね」
「……はい」
「でも」
アウレリアは、パティの頭の上に、手を置いた。
ぎこちない、慣れない手つきで。
「言いに来たのは、自分からね。……それは、えらかったわ」
「…………ぇ」
パティが、顔を上げた。
「あの小鳥、市場で買った安物よ。棚が寂しかったから、間に合わせに置いただけ。……壊れても、また買えるもの」
アウレリアは、ほんの少しだけ、口元を緩めた。
「だから、そんなに怖い顔をしなくてもいいの」
パティの目に、涙が浮かんだ。
「……おかあさま」
「なあに?」
「……怒らないの?」
アウレリアは、少し考えた。
「怒っているわよ」
「……!」
「隠したことは、叱らなければいけないもの」
パティの肩が、小さく縮む。
「でも、もう謝ったでしょう?」
アウレリアは、パティの頭をもう一度撫でた。
「なら、それで終わり」
「…………」
「次からは、ちゃんと言いなさい」
「……はい」
「約束できる?」
「……はい!」
パティが、泣きながら笑った。
――その顔を見て、俺は少しだけ目を細めた。
これでいい。壊したことより、隠したこと。
でも、隠したことより――自分から言えたことを、最後に残す。
それが、この家でパティが覚えるべき「正しさ」だ。
――そこへ、ドアが開いた。
「奥様、失礼いたし――」
ベルタが、入ってきた。
朝の支度の時間だ。定刻通りの、忠実な侍女頭。
そして、室内の光景を、見た。
小鳥を持つアウレリア。泣いているパティ。頭に置かれた手。
ベルタの顔が、一瞬、空白になった。
計算外、という顔だった。筋書きの頁が、一枚、抜け落ちた顔だった。
「ねぇベルタ。……あなた、このこと知っていたの?」
アウレリアの問いに、ベルタは――即座に、姿勢を正した。
「はい。……パトリシア様に、ご自分からお話しなさるよう、私の方からお諌めしておりました。このように、本人の口から申し上げられたこと、指導の甲斐がございました」
(……さすがだ。この女)
一瞬で立て直した。
しかも、白状の功績まで、自分の指導の成果に仕立て上げた。帳面の頁は破れても、破れた頁を糊付けして帳面ごと提出してくる。こういう生き物だ。
「……そう」
アウレリアは、短く答えた。
その「そう」の、トーンがいつもとほんの少しだけ違った。
疑い、と呼ぶほどではない。だが、確認する目だった。
「そうだったのね」
アウレリアが、もう一度言った。
ベルタは頭を下げる。
「はい」
「……分かったわ」
「失礼いたします」
ベルタが退室する。
その背中が、いつもよりほんの少しだけ早かった。
アウレリアは、閉じた扉をしばらく見たあと、手の中の小鳥に目を落とした。
「…………」
俺は柱の陰で、尻尾をゆっくり揺らした。
(まずは、一頁だ)
夕食の席で、もう一つ小さなことがあった。
「そういえば、パティ」
長兄アウグストが、ふと思い出したように言った。
「以前、領地視察の土産に贈った蜂蜜菓子――ウアフシャートだが。気に入ってもらえたか。次の視察の参考にしたいのだが」
テーブルが、静かになった。
「……え?」
パティが、首を傾げた。
「……なに、それ?」
「…………」
アウグストは、動かなかった。
フォークを持ったまま、妹を見る。
「……いや。……いや、なんでもない」
そう言って、食事に戻った。
だが、あの男の目は、もう戻っていなかった。マニュアル人間の目の奥で、「届いていない」という報告書の作成が、始まっていた。
そして俺は、見逃さなかった。
給仕の列の端で、ティーポットを持つベルタの手が。
――ほんの半拍だけ、止まったのを。
(……さあて)
夜の帳は、下りた。
だが今夜、この屋敷の帳面は、どこもかしこも、書き直されている。
――その夜、西棟の塔。
『黒猫観察日誌』
“昨日、応接サロンに闇魔術の残滓を検知した。微弱。だが紛れもなく闇。術式らしきものはなく、まるで『影が勝手に動いた』ような痕跡。……術者は、おそらくパティ。五歳。無詠唱。無訓練。……五歳でこれか。この家はどうなっている。
なお、今朝、その痕跡の中心にあった小鳥の置物が、なぜかパティの部屋に移動していた。
移動。勝手に。
置物が、移動した。
……書いていて虚しくなってきた。もう分かっている。あいつだ。黒いあいつだ。隠蔽を暴いて、白状の場まで運搬した。
つまりあの猫は、魔術を見抜き、事態の性質を判断し、『本人の自発的な告白』という最善解まで設計した。
猫が、設計を。
もう、ただの猫ではないとか、そういう次元ではない。僕は何を観察させられているのだ。
追記:……それにしても、パティが自分から謝りに行けたのは、良かった。あの子は、思っているより強い。……僕の妹は」




