第十九話「空白の列」
その夜。
アウグストの部屋の灯りは、朝まで消えなかった。
俺は、大樹の下で丸くなりながら、窓の向こうに見える明かりを眺めていた。
(……寝てないな)
珍しいことだった。
あの男は、生活のすべてに規則がある。
起床。
朝食。
剣術。
勉学。
昼食。
巡回。
勉学。
夕食。
読書。
就寝。
たぶん、寝返りの回数まで決めている。
そんな男が、夜中まで起きている。つまり――何かが、規則から外れた。
『猫さん』
頭上の枝から、グリッグの声が降ってきた。
『長男、まだ起きてるぜ』
『知ってる』
『机に向かってる。帳簿を広げてるみたいだ』
『帳簿?』
『うん。公爵家の大きな帳簿じゃねえ。もっと小さいやつだ』
俺は耳を動かした。
『……あれか』
昼間、アウグストが手にしていた小さな革張りの帳面。自分個人のお金の動きを記した、いわゆる小遣い帳だ。
そこにはパティに贈った物も記されている。
あの男らしい。
日付。品名。届けた者。そして――たぶん、最後に相手の反応。
『あれ、前からつけてたらしいぜ』
『そうか』
『婆ちゃんが言ってた。長男は昔から几帳面で、細かな事まで記録してたって』
俺は、窓の明かりを見上げた。
(……律儀な男だ)
贈り物をしたことすら、忘れない。
いや。忘れたくないのかもしれない。
翌朝。
俺は、廊下の窓際で、アウグストがその帳面を開くところを見た。
巡回の途中だった。
あの男は、歩みを止めると、廊下の窓から差し込む朝日を利用して、小さな帳面を開いた。
規則正しく、ぱらり、ぱらりとページをめくる。
やがて、指が止まった。
(……そこか)
俺が以前、見たページだった。
【日付】
【品名】
【届けた者】
そして――最後の列。
【反応】
そこだけが、空白だった。
アウグストは、しばらく動かなかった。
もう一度、前のページを見る。
そこには、『喜んだ』『大変気に入った様子』『二つ目を所望された』など、几帳面な字で書かれている。
だが。
ここ三年ほどのパティの行になると、最後の列が、妙に白い。
空白――ただの空白だ。
アウグストの指が、その空白の上で止まった。
(…………)
俺にも、分かった。
今まで、あの男は「反応がない」ことを、不思議に思っていなかった。
いや。不思議には思っていたのだろう。
だが、それを、「妹は忙しいのだろう」「まだ幼いから、うまく返事ができないのだろう」「贈り物を受け取ったことを、いちいち伝える性格ではないのだろう」などとそんなふうに、自分で処理していたのかもしれない。
人間は、自分が信じたい答えを見つけると、それ以上調べない。
だが今回は違った。
昨日の夕食時、パティの「……なに、それ?」という顔。
そして、給仕の列で一瞬だけ止まったベルタの手。
それらが、あの空白の列と、一本の線で繋がったのだろう。
アウグストはパタリと帳面を閉じた。音は、小さかった。
だが、何かが決まった音に聞こえた。
その日の昼。
アウグストは、使用人を一人、書庫へ呼んだ。
次に、もう一人。さらに、もう一人。
俺は廊下の窓枠から、その様子を眺めていた。
呼ばれた使用人たちは、皆、少し緊張している。
だが、アウグストの声は、いつもと変わらなかった。
「この日、私がパトリシアに渡すよう頼んだ菓子を覚えているか」
「はい」
「誰に渡した」
「ベルタ様にございます」
「その後は?」
「……存じません」
「そうか」
それだけ。怒鳴らない。責めない。
もう一人。
「この包みは?」
「ベルタ様に」
「こちらは?」
「ベルタ様です」
「そうか」
また、帳面に何かを書く。
俺は、その横顔を見ながら、少しだけ感心した。
(……徹底している)
感情で走らない。まず、事実を集めている。
そして――事実が揃ったところで、初めて結論を出すつもりなのだ。
マニュアル人間だが、こういう時には強い。
数日後。
俺は、アウグストがセバスのところへ向かうのを見た。
「セバス」
「はい、アウグスト様」
「屋敷の処分記録を見せてほしい」
老執事の眉が、ほんの少し動いた。
「……処分記録でございますか」
「ああ」
「何をお調べに?」
「贈り物だ」
「贈り物、でございますか……」
セバスは、一瞬の沈黙のあと
「承知いたしました」
とだけ答えた。
しばらくして、二人は書庫へ入っていった。
俺もするりと後を追う。
扉の隙間から覗くと、古い帳簿が机の上に積まれていた。
購入した物、贈られた物、贈った物、そして処分した物まで、ほぼすべて記録されている。
公爵家というものは、意外と几帳面だ。
そして――目的の物の処分記録は、なかった。
アウグストは帳簿を閉じた。
「……これで全てか?」
「はい」
アウグストはしばらく黙っていた。
怒っているようには見えない。悲しんでいるようにも見えない。
だが、その手が、帳簿の端を強く掴んでいることだけは、俺にも分かった。
(……そういうことか)
この男にとって問題なのは、菓子がなくなったことではない。
自分が贈ったものが、妹の手元に届いていなかったかもしれないこと。
そして――それを三年間、知らなかったこと。
その二つなのだ。
その翌日。
アウグストの定刻巡回が、西棟の廊下に差しかかる時間だ。
俺は、その廊下の真ん中に座った。 そして、小広間の扉を、じっと、見つめた。
何もない扉を、猫がじっと見ている。
人間にとって、これは「開けてくれ」の合図だ。あるいは、「そこに何かいる」の合図だ。猫の定点観測ほど、人間の注意を引くものはない。
「……ん?」
足音が、止まった。
背後に、アウグストの気配。
(来た。……あとは、タイミングだ)
小広間の中では、ちょうど、授業の終わったパティを、ベルタが呼び止めているところだった。
この女の「指導」は、授業後の五分に一回の間隔で発生する。俺の観察記録には、時刻表まで載っている。
「パトリシア様」
ベルタだ。
「昨日も申し上げましたが、食べ物に目を輝かせるのはお控えください」
「……でも」
「公爵令嬢が、人前で欲しがる姿を見せるなど、品位を疑われます」
「…………」
「それに、贈り物をいただいたからといって、すぐに喜ぶのもいけません」
「……どうして?」
「相手に媚びているように見えるからです」
俺は廊下の中で、尻尾だけを動かさずにいた。 背後の気配が、動かない。
(……聞いてるな)
アウグストは、扉の前に立ったまま、動かなかった。
中の会話は、続いていた。
「あなた様は、いずれ公爵家を背負う方です。何かをいただけば喜び、何かを言われれば笑う。そんな軽い振る舞いをしていてはなりません」
「……はい」
「それから」
ベルタの声が、少しだけ低くなった。
「あなた様は、奥様にも、もう少し感謝を示されるべきです」
「……おかあさま?」
「はい。奥様は、あなた様のために、どれほど心を砕いておられるか」
「…………」
「にもかかわらず、あなた様は、お兄様方から何かいただいた時だけ嬉しそうなお顔をなさる」
パティが黙った。
「それでは、奥様のお立場がございません」
「……ごめんなさい」
「謝れば済むことではありません」
俺の尻尾が、ぴくりと動いた。
(……なるほど)
これだ。
菓子だけではない。贈り物だけでもない。
この女は、普段からこうやって、パティの「嬉しい」という感情そのものに、理由をつけて蓋をしている。
喜べば、軽い。
欲しがれば、卑しい。
笑えば、品位がない。
兄から贈り物をもらって喜べば、継母への配慮が足りない。
何をしても、どこかに「悪い理由」をつけられる。
「……分かりましたか、パトリシア様」
「……はい」
その返事は、小さかった。
扉一枚を隔てて、兄は妹の声を聞いている。
中では、ベルタが続けていた。
「本日のお茶の時間も、私がご用意いたします」
「……うん」
「パトリシア様のお好みは、私が一番よく存じておりますから」
――沈黙。
長い沈黙だった。
俺は、廊下に座ったまま、耳だけを動かした。
やがて扉が開き、ベルタが出てきた。
「……アウグスト様」
「……ああ」
「ご巡回ですか?」
「ああ」
「では、失礼いたします」
ベルタは、いつものように完璧な礼をして、歩き去っていった。
アウグストは、その背中を見送った。
何も言わない。表情も変わらない。
ただ――小さな帳面を、懐から取り出した。そして、何かを一行だけ書いた。
(……何を書いた)
気にはなったがここからでは見えない。
アウグストは帳面を閉じ、そのまま歩き出した。
俺も、後を追う。
しばらくして、書庫の前で立ち止まった。
アウグストは中に入り、机に座る。俺はひっそりと書棚の上に飛び乗った。
彼は昨日の帳簿を開いた。
空白の列。
アウグストは、一つ一つの日付を指で追った。
そして、書棚からベルタの週報を取り出した。そこには、毎週の報告が並んでいる。
几帳面な文字。整った文章。
そして――
『長兄様より賜りました過日の蜂蜜菓子、パトリシア様は大変お喜びのご様子で――』
アウグストがその一文の前で、長く動かなかった。
そして帳簿を見る。週報を見る。また帳簿を見る。
そして最後に、小さく呟いた。
「……喜んで、いたのか」
誰に聞くでもない。虚空へ向けた、ひび割れた声だった。
アウグストは、ほんの数秒目を閉じ――そして、帳簿を閉じた。
音は、静かだった。
(……そうか)
たぶん、あの男は今、三年間、自分が信じていたものを、一つずつ、疑っている。
妹が喜んでくれていると思っていたこと。
贈り物が届いていると思っていたこと。
返事がないのは、妹がそういう性格だからだと思っていたこと。
全部。
そのどれもが、最初から間違っていた可能性。
その日の夕方。
アウグストは、また使用人を呼んだ。
今度は、質問が違った。
「ベルタに渡した品について、彼女は何と言っていた?」
「……処分すると伺ったものもございました」
「処分したと言っていたのか?」
「はい」
「その記録は?」
「……存じません」
「そうか」
また一行、また一行。帳面に記録が増えていく。
やがて、アウグストは立ち上がった。
そのまま、ベルタの部屋へ向かう。
俺も追う。
だが、部屋の前で立ち止まり、しばらく扉を見ていた。
そして――引き返した。
(…………)
証拠なら、もうかなり揃っている。今すぐ扉を蹴り開けて、あの女を問い詰めることだってできたはずだ。
だが、入らなかった。
この男は、私刑を良しとしないのだろう。どれほど腹の底が煮えくり返っていようと、「家長(父)の裁可」という正規の手順を外れない。
感情を殺し、手続きを踏む。その冷徹なまでの自制心が、逆に凄まじかった。
その夜。
俺は大樹の下で、グリッグの報告を聞いていた。
『長男、今日も昼飯食わなかった』
『またか』
『ずっと帳簿見てた』
『そうか』
『……猫さん』
『なんだ』
『怒ってんのかな』
俺は少し考えた。
『たぶん、違う』
『違う?』
『怒る前に、確認している』
『……同じじゃねえの?』
『違う』
俺は尻尾を一度だけ振った。
『怒っている人間は、相手を見る。あの男は、証拠を見ている』
しばらくして、俺は小さく息を吐いた。
(……怖いな)
怒鳴る人間より、泣く人間より、静かに帳簿を閉じる人間の方が、ずっと怖い。
そして、翌朝。
アウグストは執事を呼んだ。
「セバス。父上に、取り次いでほしい」
「……何について、でございますか」
「家族の、大切な話だ」
老執事は、一瞬だけ、長男の顔を見た。 それから、深く、頭を下げた。
「……承知いたしました」
その時、セバスの目は、まったく驚いていなかった。 驚いていない、ということは――
(……あの老人、どこかで、折を待っていたな)
――その夜、西棟の塔。
『黒猫観察日誌』
“ここ三日、兄上が昼食を抜いている。書庫に篭り、使用人を呼び、帳簿と睨めっこしている。……何かが、起きている。 そして被験体は、この三日、完璧なまでに『いつも通り』に昼寝をしている。
何か大きなことが起きている時ほど、あの猫は普段通りだ。
……嵐の前は、猫が寝るものなのか。
いや、たぶん違う。あいつは、嵐を起こした後で寝ている。
それが一番、怖い”
一年前の今日、九月二十日。
投稿を開始したのがその日でした。
ちょうど一年、少しは成長したのかな。
だったら嬉しいな。
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