将軍の悲願、魔王の笑み
京の片隅、朽ちかけの御所で私は震える手で筆を走らせていた。
天下の主である将軍家が、一介の尾張の成り上がりにこれほどまで侮られる日が来ようとは。信長。あの男は将軍家の権威を道具として利用し、用済みとなれば平然と捨てるであろう。
(もはや、これしかない……)
私は密かに、信頼に足る諸大名たちへ「織田信長追討」の御内書を書き送った。
北の越前・北近江から浅井長政。越後の上杉謙信。甲斐の武田勝頼。三河の徳川家康。西国には毛利元就、四国の長曽我部元親――。
信長という毒を排除し、再び将軍を中心に天下を動かすための「包囲網」を、今ここに構築するのだ。
数日後、岐阜城の信長から返書が届いた。震える指で開くと、そこには私の画策を嘲笑うかのような冷徹な文字が躍っていた。
「将軍様。天下の政には、少々のお遊びも必要かとお見受けする。だが、その手紙、拙者のもとにも多くの『忠臣』から届いておりますぞ」
全身の血が凍りついた。
信長の書状には、こう続いている。
『私のもとへ「将軍様より、このような無礼な手紙が届きました」と即座に報告してきた者は、真の忠臣として手厚く報いる。しかし、黙して語らぬ者……彼らこそが、我が天下を覆そうとする、最も危険な『潜在的な敵』であると確信した』
――知っていたのか。最初から、すべて。
誰が密告し、誰が沈黙を守ったのか。この手紙一枚で、信長は天下の大名たちの腹の内を、篩にかけようとしているのだ。
信長にとって、この「信長追討の密書」は、ただの反逆の証拠ではない。誰が自分を裏切り、誰が信じられるかを炙り出すための、精巧な罠に過ぎなかったのだ。
私は御所の暗闇の中で、無力感に打ちひしがれた。
私が放った最後の一手は、将軍家の権威をさらに地に落とし、信長の支配をより強固なものにする結果を招いてしまった。信長という男は、もはや武力だけでなく、人心そのものを掌の上で転がしている。
(……この国に、もはや将軍の居場所など、どこにもないのか……)
天下を想う私の心は、その「魔王」という名の圧倒的な現実の前に、ただ虚しく砕け散った。




