石山の落日、そして新たな算盤
石山本願寺の奥の間。立ち込める香の匂いの中に、顕如と下間頼廉の重苦しい空気が漂っていた。外からは、織田軍の整然とした行軍の音と、物流を完全に遮断された寺の静寂が、我らを追い詰めている。
「頼廉……。織田の領内で、民を一揆へ扇動する試みは全て失敗に終わった」
顕如が絞り出すような声で告げると、下間頼廉は悔しげに拳を床に叩きつけた。
「……信長め。かつては苛烈な支配で民を苦しめていたはずが、最近では物流網を整え、商いを活性化させることで民の暮らしを豊かにしおった。今や織田の領民たちにとって、信長は『餓えを救う支配者』にございます。……一揆など、起こるはずもございませ。民にとって、織田の世の方が『幸せ』なのですから」
これには顕如も溜息を漏らすしかなかった。戦いとは、民の支持を失った時点で勝負は決している。信長という男は、武力だけでなく「食」と「経済」という最も確実な土台で、我らの信仰の拠り所を掘り崩していたのだ。
「仕方がない……降伏するほかない。今は無駄に命を散らす時ではない。捲土重来、いずれ必ずや信長の物流帝国を食い破る時が来る」
顕如は目を閉じ、静かに決断を告げた。
「頼廉、我らは甲斐の武田を頼る。……我が妻は、あの武田信玄公の正室と姉妹。勝頼公ならば、我が意を汲み、再起の糧を貸してくれよう」
「武田家ですか……。武田もまた、信長の脅威にさらされております。であればこそ、信長への怨念を共有できる唯一の同志にございますな」
二人は、本願寺の財宝の一部と、各地に潜伏させていた信徒の名簿を極秘裏に持ち出す準備を始めた。石山を明け渡し、一度は信長に膝を屈する。だが、それは敗北ではない。武田という新たな牙城に身を隠し、信長が天下に油断したその瞬間に、再び炎を燃え上がらせるための「一時的な撤退」だ。
本願寺という巨大な宗教勢力が、織田の天下に屈した。この報せは、京の都から遠い東の国々まで、静かに波紋を広げていくだろう。




