越後の龍、眼光を北へ
届いた書状を、私は静かに床へと置いた。
北条氏政からの使者は、再三にわたり「織田・武田の連合軍に対する加勢」を求めてきた。だが、今の俺が北条の火急に手を貸すことは、すなわち織田という名の巨大な渦に自ら身を投じるに等しい。
「北条との同盟は、これにて終わりだ」
俺の言葉に、重臣たちは戸惑いの色を見せたが、俺の眼はすでに南の関東平野ではなく、北の寒風吹く地を見据えていた。
(織田信長……あの男は、物流という網を張り巡らし、京の都だけでなく、やがては日本全土の喉元を締め上げに来るだろう。俺たちが北条を助けて東国で消耗している隙に、越後がその標的にならぬ保証はない)
北条を助け、消耗して滅ぶか。あるいは、今のうちに北へと舵を切り、盤石な基盤を築いて信長に備えるか。勝負師としての勘が、後者こそが上杉の生き残る道だと告げていた。
俺が狙いを定めたのは、蘆名家だ。
奥州の蘆名は、伊達や最上と接し、東北の物流と政を握る要衝。あの一族に上杉の血と教えを浸透させ、事実上の支配下に置くことができれば、越後と奥州を結ぶ強固な経済と軍事の絆が生まれる。
「織田が西から京を焼き、東から関東を蹂躙するなら、俺は北の地で『第二の越後』を育てるまでだ。東北の諸大名を束ね、信長の網が届かぬほどの巨大な防波堤を築き上げる」
俺は広間に地図を広げ、蘆名の領地を指でなぞった。北条が織田に食われ、武田がその尖兵として削り潰される間に、俺は力を蓄える。
かつて信玄と争った戦場の熱は、もう冷めた。今の俺の敵は、戦場を金勘定で支配しようとする、あの織田の魔王だ。
「謙信公、東北を狙うとなれば、浅井長政の動きが読めませぬ。あやつ、信長の意向で我らの北陸路を狙ってくるやもしれません」
直江兼続の懸念ももっともだ。だが、俺は不敵に笑った。
「長政、あの男もまた商人の如き者。損な戦はせぬはずだ。こちらが東北で確固たる勢力を築けば、長政としても迂闊には手出しができまい。……蘆名に染まり、東北の龍となれ。それが、織田に対抗しうる唯一の道だ」
北条の悲鳴が聞こえる南を背に、俺は雪深き北へと歩を進める。天下という盤面で、俺は織田の思惑を外れ、独自の牙を研ぎ澄ますことに決めた。




