家康の隠忍、その内なる毒
武田勝頼の従属により、遠江の地が我が手に転がり込んできた。武田の旧領という広大な版図を手中に収め、徳川家の基盤は磐石となったかに見えた。しかし、俺の心は晴れぬどころか、どす黒い淀みで満ちていた。
(遠江を割譲される……それは表向きの恩賞に過ぎぬ。その実、俺は信長の飼い犬として、最も泥臭い役目を押し付けられているに過ぎん)
東を見れば、武田勝頼という信長の操り人形が北条を睨んでいる。北には浅井の物流網が君臨し、西には織田という巨大な怪物が京を支配している。
かつての敵であった武田や北条までもが、今や「信長の戦場」の構成要素となり、俺を取り囲むように配置されている。おかげで俺は、織田の軍事枠組みの中で完全に「頭打ち」の状態だ。これ以上、徳川が自力で領土を広げる隙間など、どこにも残されていない。
「殿、遠江の統治は順調にございます。これにて徳川は三河・遠江を併せ持つ大大名にございますぞ」
家臣の歓喜の声が、今の俺には呪詛のように響く。信長という男は、俺たち大名を「ただの駒」としてしか見ていない。都合よく配置し、都合よく戦わせ、最後は都合よく処分するつもりだろう。
(信長……あんたは、俺の人生の全てを支配するつもりか)
ふと、廊下の向こうで笑う織田の使者の影が見えた。俺は視線を逸らし、算盤を弾くフリをして、密かに右手の短刀に触れた。
今はまだ、時ではない。信長の周囲には常に信忠や羽柴、それにあの腹黒い浅井長政までが目を光らせている。今、不穏な動きを見せれば、徳川など一瞬で潰される。
(俺は、今の地の悪さを誰よりも理解している。この地で毒を撒けば、真っ先に食らうのは自分自身だ)
俺は深く息を吐き、静かに扉を閉じた。
天下人への道ではない。信長という、この国を歪める巨木の根元に毒を注ぐための、長い待ちぼうけの始まりだ。いつか必ず、俺の算盤が弾き出す最後の一撃で、その首を落とす。
「……天下か。それはあんたが引きずり下ろされた後に、この俺が拾い上げてやるよ」
誰にも聞こえぬ呟きを残し、俺は再び「信長の忠実な家臣」という仮面を被り直した。




