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逢魔時


 朝は晴れていたのに宗一の家に着いた途端、再び横殴りの雨が降ってきた。

 千陽は六月の雨に心を乱され続けている。

 村に来てからずっと千陽は、心の拠り所を見つけられないでいた。

 この村だけじゃない。そもそも千陽の居場所なんて、もうこの世のどこにもないのかもしれない。

 雨のせいか、あるいは再び千陽の心の中に芽生えた蟠りのせいなのか頭が重く気鬱だった。

 川遊びで濡れた服を着替えたあとは、宗一と居間で雨が上がるのを待つことにした。宗一に「多分通り雨だ」と言われたが千陽はこのまま宗一の家で二人で過ごしたかった。外に出たくない。村が怖い。けれど、このまま宗一と一緒にいるのも苦しい。

 宗一の口から聞く昔話全てが、千陽の罪を糾弾する幻聴と重なって聞こえてくる。居間の柱時計が十二時を知らせて鳴り響き、その音が千陽に昨晩の悪夢を思い出させた。

「千陽? 寒いのか?」

 千陽は冷えた腕を無意識に手で擦っていた。

「あ、いや大丈夫。けど扇風機だけ緩めるよ」

「おう、てか髪ちゃんと乾かせよ。まだ濡れてるじゃん」

 宗一が、こちらに手を伸ばしてきて、千陽の首のタオルで髪を擦ってきた。

「ありがと」

「どういたしまして」

 心が弱っている。

 そっと離れていく宗一の手に自分の手を重ねたくなった。けれどできなかった。滑落事故にあったとき、千陽は宗一の手を取れなかった。伸ばそうとした右手が、過去の自分の姿と重なって見えた。

 宗一と、初めからやり直したい。

 そんな虫が良すぎる千陽の思考を読むように、もう一人の宗一が、突然目の前に現れた。

 昨晩と同じ黒い長着を着た宗一が、口端を上げて千陽を見下ろしている。

 千陽が心を乱すたび、宗一と同じ姿をした異形が千陽の前に現れる。

 異形は千陽の背後に回り、背に覆い被さるように抱きついてきた。そして、そっと耳元に口付けた。何度も何度も千陽は心の中で消えろと叫んだが、異形は千陽の動揺を嘲笑うように身体を弄んでくる。

 この世の者ではない、自分の鏡写しのような存在。この軽薄な宗一は、千陽の罪を無遠慮に責め立ててくれる。

 ――なぁ千陽。俺のことなんて、本当は何も覚えてないって言えよ。……俺は千陽がどんなに酷い男でも怒ったりしない。お前の全部を受け入れてやる。

 異形の言葉に体が氷のように冷たくなっていく。それに反比例するように反発心は上がっていった。異形の身体を受け入れたくなかった。

(ッ、違う! 俺は、ちゃんと宗一のことを覚えて……)

 白い異形の手が千陽の唇の上をするりと滑った。千陽は宗一の前で微動だにせず、平静を装って会話を続けていた。

 ――嘘。じゃあどうして一番大切だった俺との記憶がないんだ? 退院して村を出る前、お前は――俺と会ったんだろう?

 どこからが夢で、どこからが現実なのか。千陽は自分の記憶に自信がない。自分の本当の気持ちにも。

 異形に反論する言葉が見つからなかった。宗一が千陽にとって大切な親友だったなら、退院後、村を出た日の記憶が残っているはずだ。千陽は宗一に何を言った? 何と言って宗一とお別れした?

(俺は……どうして……大切な記憶を失っているんだ)

 ――さぁ、どうしてだろうね、千陽。

(忘れたくなかった。宗一のことは全部覚えていたかった)

 ――嘘つき。薄情者。

(全部、事故のせいだ!)

 ――違うよ。お前、本当は宗一のことが憎かったんだろう。忘れてしまいたいくらい。村での思い出ごと全部消してしまいたいくらい。宗一のことを忌々しいと思っていた。許せなかった。

(違う!)

 ――お前がそんなに否定するなら、はっきり言ってやろうか。

(ッ)

 ――お前はな、よそものなら簡単に心を開ける男なんだよ。宗一が好きなんじゃない。お前は、単に、自分と同じ人間が欲しいだけだよ。

 異形の身体が千陽の心の内側をどろどろと侵食していくのを感じた。

 ――千陽。お前は本当に……汚いなぁ。昔はもっと純粋で可愛かったのに。優しく抱いてくれるなら、本当は誰でもいいんだろう?

「なぁ千陽、覚えてるか? 川で俺たちさ……」

 千陽の目の前で無邪気に笑う宗一の声が遠かった。気づいたときには、そっと宗一の左手に自分の右手を重ねていた。もう、全部壊してしまいたい。

「どうした? 千陽」

 宗一に会いたかった。それは、本当だ。

 自分じゃない誰かに、身体を乗っ取られたような気分だった。

(違う、もう、こんなことは、やめて欲しい。したくない)

 ――嘘をつくなよ、千陽。宗一の全部が欲しかったんだろう? お前は正しいよ。今手を重ねている、それが、お前が望んだ、「理想の宗一」だ。

(違う、俺が、俺が好きな宗一は――)

 ――もう、いない。だから代わりにお前が望むまま、俺がひどくしてやっただろ? お前が望む、俺の身体は美味しかったか?

「宗一」

 時間が止まった気がした。千陽が宗一の名前を呼んだ途端、千陽を苛む着物姿の異形は姿を消していた。

「千陽?」

「……寒い」


 * *


 旅行前は思い出の村に行きたいと熱望していたのに、今は早く宗一と二人で東京に帰りたいと思っている。昔の自分じゃなくて、今の宗一のことが知りたかった。

 自分たちが本当にいるべき場所はこの村じゃない。このままこの村にいたら大切な思い出が壊れてしまう。

 宗一だって、そう思っているはずだ。

 自分たちは昔のことなんて、これ以上思い出さなくていい。

 全部忘れてしまえばいい。

「――千陽、天気予報見たけど夕方に雨止むってさ」

「そっか、よかった」

 千陽は宗一の肌色の広い背中と、赤い爪痕を居間の畳の上からぼんやりと見つめていた。

 宗一が言った通り、しばらくして雨は上がった。

 突然止んだ雨に、もう逃がさないと言われている気がした。


 *


 宗一と再び家の外に出たのは、午後三時過ぎくらいだった。

 雨は上がったが、空にはまだうっすらと灰色の雲がかかっている。

 千陽と宗一が通っていた小学校は、今は地域の人が集まるコミュニティセンターとして利用されている。

 二階建ての木造瓦作りの古い校舎は、さっきの大雨で濡れたせいで、建物全体が黒く濁って見える。宗一と二人で校舎の中に入ると玄関の電気は消えていて中はシンと静まり返っていた。玄関の両開きの扉が後ろで閉まると日光が遮られて中が薄暗くなった。

 二人で廊下を奥に進むたび床がぎいぎいと音を立てる。

 公共施設として使われているのに、管理人は常駐していないそうだ。

 入り口に置かれた移動式の黒板には、夕方、校門の鍵を閉めにくるまでは出入りは自由だと書かれていた。

「床、抜けそうだな」

「あぁ。宗一は廃校になってから来たことあるのか?」

「いや、実は初めて。俺が高校卒業する年だったかなぁ、廃校になったのは」

 長い廊下を歩きながら千陽は教室の中を覗いていく。教室と廊下を隔てる窓ガラスは、ところどころ割れていて今にも床に落ちそうなものもあった。

「お、この一番奥の教室使ってたよな」

「そう……だったかな」

 ここは自分が通っていた小学校だ。それなのに千陽はどの教室のどの席に座っていたのか、誰とどんな話をしていたのか、どんなに注意深く観察しても少しも記憶が呼び起こされなかった。

 自分が過ごした教室を見れば、何か思い出すかと思ったが、やっぱり宗一以外のクラスメイトの顔は全てのっぺらぼうの黒い影のままだった。

 一階の一番奥の教室には、絵本や小説が木製のロッカーに乱雑に並べられていた。

「あ、電気切れてる。まぁ、カーテン開けたら大丈夫か」

 宗一がシミだらけの水色のカーテンをさっと半分だけ開けた。

 教室に陽が差し込み、細かい埃がキラキラと光って見えた。

 千陽はなんとなく手近にあった小説を手に取った。千陽が中学生くらいの頃に流行っていたホラー小説だった。黒い表紙は日に焼けて、白っぽく変色しているし、触っただけで製本が崩壊しそうなほど傷んでいた。

「お、それ懐かしい、昔映画やってたやつだろ」

「うん。どんな話だったかな」

 本には管理用の判子やシールカードなどは付いていない。前の黒板には図書室と書いているが本の貸し出しなどはしていないようだ。

「俺も、なんか読も」

 宗一はそう言ってしゃがんでロッカーの中を覗き込んだ。千陽は小学生が使う低い椅子に座って手に取った本を開いた。

 しばらく本を読み進めていると、すぐに小説の内容と、中学生のときに友達とこの映画を見に行った日の記憶が蘇った。――こんなふうに、宗一との記憶も簡単に全部思い出せたらいいのに。どんなに村で過ごしても、宗一との記憶だけが歪なままだった。それどころか宗一と再会してから不安と恐怖ばかりが積み重なっていく。

 千陽が苦々しく思っていると後ろからギイギイと椅子が揺れる音が響いた。突然思考に割り込んできた音に驚き、体が勝手に跳ねた。

 いつの間にか本を読むのに集中していたようだ。

「なぁ千陽、見て」

 振り向くと宗一が古ぼけた水色のハードカバーの本を手に後ろの椅子に座っていた。

「それ……」

「俺たちが卒業した年の卒業アルバム。千陽も見るか?」

 宗一の軽い問いかけに千陽はすぐに返事ができなかった。普通なら懐かしいと受け取って笑顔でアルバムを開くところだ。

 けれど、千陽にはできない、怖い。自分は、それを見たくない。

 だって千陽は今日まで卒業アルバムを見た記憶がない。

 本能が拒絶していた。知りたくない。

(変だ……俺)

 千陽は懐かしさに引き寄せられて、この村にやってきた。だったら千陽は迷わずそれを手に取って見るべきだ。

 身体を硬直させ、返事をできないままでいると、宗一は椅子から立ち上がって千陽の目の前に立った。

「ほらよ」

 宗一から押し付けるように卒業アルバムを手渡された。

 千陽がアルバムを開くのを迷っていたのは、ほんの一瞬だった。それなのにとても長い時間に感じた。先に口を開いたのは宗一だった。

「……そっか。そうだよな。嫌だよな。千陽はさ」

 宗一は顔を床に向けてそう言い放った。苦しげな、それでいてどこか諦めを滲ませたような声だった。

「そう、いち」

「千陽ってさ、俺のこと、怖い?」

「違う!」

 宗一の問いに焦って千陽は慌てて椅子から立ち上がった。立ち上がった瞬間椅子が床に倒れて派手な音が上がる。

 どんなに否定の言葉を重ねたところで、今、千陽の様子がおかしいのは明らかだ。

 宗一は首を横に振ったあと顔を上げる。千陽を見つめる宗一は、眉間に皺を寄せていた。どうして宗一はそんな表情を千陽に向けているのだろう。

 道中、あんなに笑って楽しそうにしていたのに。

 千陽の存在が、宗一を不幸にしている気がした。

「分かってた。千陽は昔の写真なんて、見たくないよな」

「どういう……意味だ」

「そのまま言葉通りだよ。千陽はさ、本当はこの村に来たくなかったんだ。それを俺が無理やり」

「違う! そんなこと、俺、この旅行楽しみだったし、この村が懐かしくて……」

 ――嘘だ。手紙が来るまで宗一のことも村のことも全部忘れていた。

 ――それは、千陽の罪だ。

「嘘、つかなくていいよ。悪かった……俺だけが、ずっと千陽に会いたくて。千陽に無理させてた」

 宗一は千陽の手からアルバムを奪うと、後ろのロッカーの元の場所に戻した。

 そして千陽をその場に残して教室を出ようとする。

「待って、宗一、どこに行くんだよ。俺は、俺だって、ずっと宗一に会いたかった」

 千陽は慌てて宗一を追いかけて、後ろのドアの前で宗一の左手を握った。カーテンが開けっぱなしの窓からは夕陽が差し込み、宗一の顔を赤く染めている。

 こんなに赤く照らされているのに生気を失ったように見えた。その死人のような宗一の表情に身が震える。

 千陽は宗一にこんな暗い表情をさせるためにこの村に来たんじゃない。

 ただ、宗一に会いたかっただけだ。

 本当に、ただ、この村が懐かしくて。

 あの頃の、宗一に、もう一度会いたくて。

「千陽……」

「宗一、聞いてくれ。俺は……宗一のこと怖いなんて、思ってない」

「分かった。じゃあ正直に教えて、千陽。――お前、この村の……。いや、昔のことを、どれくらい覚えてるんだ」

 千陽は宗一の問いにすぐには答えられなかった。

 再び現れた異形は優しく千陽の背中から腕を回してくる。異形が耳元で囁く甘い言葉に千陽は頭を振って抗った。

 ――全部、忘れてたくせに。本当、薄情な男だ。

(違う!)

 ――本当のことも言えないくせに。

(言おうとした! 俺は!)

 ――村のことを全部、忘れたのは、お前の罪、だ。

(だから、俺は、全部、思い出そうとした!)

 ――お前は、俺の身体だけでいいんだろう。だから平気で宗一の心を傷つける。愚かだ。

(違う!)

 ――お前は、目の前の宗一を見ようともしない。

 宗一は千陽の目を真っ直ぐに見つめたまま、千陽の言葉を待っていた。

「……此処に来るとき寝台車でさ。千陽訊いただろ? 俺たち、昔喧嘩したかって」

 千陽は、ゆっくりと頷いた。

「千陽、酔っ払ってたから、話途中になって、ちゃんと訊けなかった」

 ――いっそのこと全て壊してしまえばいい。

 異形の誘いに抗えず、千陽は重い口をついに開いてしまった。

「ごめん……宗一。俺、お前が手紙くれるまで、村のこと何も覚えてなかった。でも……でもな! 手紙もらってから少しずつ……」

「そっか、うん。俺、ちゃんと、分かってたよ」

 千陽が告白を続けようとしたら、宗一が言葉を被せてきた。オセロの白が黒に切り替わるような変化だった。宗一が壊れたのかと思った。

 目の前の宗一は笑っていた。なんで、こんなに笑っているのだろう。

 千陽が罪の告白をしたら、満面の笑みを向けられている。

 千陽は宗一の左手を思わず離してしまった。

 宗一の歪な反応に千陽の背は凍るように冷たくなる。宗一が距離をつめるたび、一歩、また一歩、千陽は後ずさった。

「俺はさ千陽。千陽が俺のこと何も覚えてなくても……千陽が幸せでいてくれたら、それで良かったんだ。ごめんな俺、お前のこと……救えなくて」

「……救う?」

「千陽、おかえり。俺、ずっと、待ってたよ」

 宗一が壊れた笑顔のまま、そう告げた――刹那。

 窓から旋風が吹き込んできて千陽は思わず目を閉じた。目を閉じている間、遠くで、学校の下校時間を知らせるチャイムが鳴り響いていた。

 ――千陽が再び目を開けると、目の前から宗一の姿が忽然と消えていた。


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