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千陽の家

 *


 高里さんの家を出たあとは、宗一と二人で駅前まで腹ごなしに歩いた。昔、駅前には千陽の家があった。

 千陽の記憶では、駅まで続く街路樹が植っていた気がした。けれど千陽が登下校時に毎日見ていた木々はすでに伐採されてしまって、だだっ広い砂地のでこぼこ道が続いているだけだった。駅前の広場は千陽の記憶のようにあちこちが無惨に切り取られていた。

「あー駅の中、雑草だらけだな。千陽、足元、気をつけろよ」

「ボロボロだな」

 廃墟写真が好きな人がいたら喜びそうな風景だった。

 駅舎の屋根からは赤い割れた瓦が地面に落ち、内部のコンクリートはほとんど割れて剥がれていた。内側に足を踏み入れると、歩くたび劣化した床がバリバリと割れる音が響く。

「千陽はここから電車乗ったことあるんだっけ」

「……あーどうだったかな。時々親と村の外に買い出しには出たけど車だったかも」

「俺も高校はバス使ったし、正直、乗った記憶ないなぁ」

 駅舎の中から、自分がかつて暮らした家の方向を見たが、跡形もなく消えていた。駅から見えるのは、宗一の家の周囲と同じく雑草が生えた空き地だけだった。

「残念。ホント何も残ってないな。俺の家」

「千陽たちが東京に戻った後すぐかな建物を取り壊したのは。電車もその頃、廃線になってさ。そこから駅前は何もなくなった」

「そっか」

 千陽は朽ち果てた廃駅を出て、自分の家があった空き地に足を踏み入れる。途端に夏の暖かく湿った空気が吹き寄せてきた。空き地の一番奥の方まで行くと腰の高さくらいの草が生い茂っている。

 誰にも管理されていない土地がひどく物悲しく目に映った。

 数年だけ過ごした古民家だが、今でも頭の中で家の間取りを描けた。

 千陽は何もない空き地を記憶をたどるように歩いてみた。

 喫茶店の入り口。両親が店を切り盛りしている店の横を通り抜けて、母屋へ向かう。畳敷の居間。宗一と二人でゲームをして遊んだテレビの前。居間の向こうには縁側があった。庭では両親が家庭菜園をしていた。

 何も残っていない。

 村に来てから、どこに行っても千陽のなかで記憶と現実が噛み合わず歪な形をしている。胸の奥がざわざわして落ち着かない。

「あのさ……宗一。俺、村の中で行きたいところあるんだけど」

「ん? おう、いいぜ。どこに行く?」

「宗一と俺が、一緒に遊んだところ、とか」

 今回これといって千陽には村ですべきことがなかった。

 夜行列車に乗って宗一と旅行をする。それが千陽の旅行の一番の目的だ。

 千陽はこの旅行で何をしてもいいし、何をしなくてもいい。

 子供の頃、数年過ごしただけの村に懐かしさを感じて引き寄せられた。もう一度行ってみたいと思った。

 ――ほかの誰でもない……宗一と一緒だったから、行きたいと思った。

 けれど本当にここは千陽がかつて暮らした村なんだろうか。

 知っているはずなのに、何を見ても、どこに行っても、宗一だけが千陽の中で懐かしかった。

「村で千陽と一緒に行ったところなぁ、いっぱいあるけど。あとで学校は行くつもり。じゃあ、ぶらぶらしながら考えるか」

「うん」

 宗一から届いた手紙には、一緒に村に行こうじゃなくて、一緒に帰ろうと書いてあった。

 すでに宗一の家には彼を待っている家族はいないのに。――どうして?

 違う、宗一には、この村で待っている村人がいたじゃないか。――そうだろう?

 この村には千陽の帰る場所はない。かつて暮らした家はすでに跡形もなく空き地になっていた。どうして千陽は、懐かしさに引き寄せられたりしたんだろう。

 ここには何も残っていないのに。


 宗一と道なりに歩いて、山の麓までたどり着いた。不思議だった。朝、高里さんと会ったが、バス停以降、千陽たちは彼女以外の村人に出会っていない。いくら過疎といっても、これほど広大な田んぼや畑があるのだから、一人くらい仕事をしている人に出会ってもおかしくないのに。

 小学生の頃、村にいたときも同じだった。学校帰り、千陽が村の中を歩いているときは、いつも宗一と二人だった。村の人は家の中に隠れて千陽の様子を家の中から伺っているみたいだった。

 もしかして、今もそうなんじゃないだろうか。家の中から彼らは、よそものの千陽を監視している。

 少し前を先に歩く宗一は、千陽を置いて突然土手の下へと降りていった。

「どうした宗一?」

「千陽、下降りてこいよ。ちょっと川で遊ぼうぜ」

 降りると言っても川まではほんの三歩ほどだ。千陽は言われるまま宗一の後を追って河原まで来た。

「宗一、今から学校の方行くんじゃなかったのかよ」

「学校は逃げないけど、魚は夜になったら見えないし、あ、メダカいた!」

 宗一は川を覗き込んで、一人はしゃいだ声をあげた。

「大声出したら逃げるだろ」

 千陽は宗一の隣にしゃがみこむ。

 歩いて向こう岸に渡れるくらいの流れの緩やかな小川だ。透き通った水を覗くと、宗一が言った通りメダカが群れをなして泳いでいた。こんなに綺麗な水なら夏の夜には蛍も見えるかもしれない。

 昔、自分は夏に宗一とどんなふうに一緒に過ごしたんだろう。

 小さな赤い花びらが、パラパラと思考の片隅でチラついた。

 失った記憶はまだ全て取り戻せていない。もしも、仮に千陽が過去の記憶を全て取り戻せたとしたら、今と何かが変わったりするのだろうか。

 宗一の「全て」を受け入れられるのだろうか。

 宗一はスニーカーと靴下を脱いで、ジャージの裾をたくし上げると、ゆっくりと川の中に入っていった。

「つめてぇ」

 千陽は河岸から何をするでもなく宗一の姿を見つめていた。

 千陽はさっき高里の奥さんから聞いた自分の両親の話が頭から離れなかった。

 ――千陽くんのご両親みたいな生き方は同じ親としてとても尊敬してたの。誰でも出来ることじゃないわ。

 千陽は両親のことを、そんなふうに思ったことがなかった。

 村にいた頃、千陽の周りには信用できる大人がいなかった。誰も、信じられなかった。

 親も、村の人たちも。

 村の人間と村の外の人間。絶対に分かり合うことなど不可能だと思っていた。けれど両親は村の人から、理解されていたのだろうか。

 じゃあ、この村で、よそものだったのは。

 自分だけだったんじゃないか。

 自分だけ、村で、どこにも居場所がなかった。

(どうして、自分だけ、彼らの内に入れてもらえなかったのだろう)

 ――許せない、こんな仕打ちを、受け入れられるはずがない。

 赤い花びらは、どんどん心の中に降り積もっていく。まるで誰かがこぼした血のようだった。

「――千陽、千陽、どうしたんだよ。ぼんやりして、朝飯食い過ぎた?」

「あーうん。そうかも。朝からあんなにたくさん食べるとは思わなかったな」

「高里さんとこの飯美味かっただろ」

 宗一は歯を見せてニッと笑う。

「うん」

 宗一は川の中でかがみ、水の中に両手を入れて、そっとメダカをすくおうとした。当然、メダカはするりと上手く手のひらから逃げていく。

「あー逃げた」

「捕まえてどうするんだよ。飼うのか?」

「キャッチアンドリリース」

「キャッチできてないし」

「なぁ千陽。高里さんってさ」

「うん」

「俺の両親いなくなってからも、ずっと家とか俺のこと気にかけてくれててさ。ほんと、ありがたいよ」

「そっか」

「村で俺のもう一つの家族みたいなんだ」

 宗一の言葉に千陽は急に心が落ち着かなくなる。その気持ちを隠すように、千陽は川に両手を突っ込んだ。けれど、川の水の冷たさは千陽の心に冷静さを取り戻してくれない。

 ――自分には、いない。誰も、いなかった、気にかけてくれる大人なんて。どうして!

 透き通った水面に映る自分の顔だけが、暗く濁って見えた。

「……よかったな。お前に村で助けてくれる人がいて」

 千陽は、自分の口から漏れ出た言葉が信用できなかった。川の中に映る黒い自分が喋っているみたいだ。

 千陽は本当に心からそう思ってるのだろうか。両親を亡くした宗一に、村で頼りになる人間が一人でもいてよかった、と。本当に自分は、思っているのだろうか。

 宗一も千陽と同じように一人になればいい。自分と同じくらいもっと寂しさで苦しめばいい。――あぁ、許さない、お前を、私は許さない。千陽の中で誰かが叫んでいた。苦しい。助けてくれ。

 もっと、もっと……苦しんでくれたら。

 ――愛してあげるのに。

(違う!)

 思考の隙間に流れ込んできた愛憎を千陽は否定する。これは自分じゃない。自分のはずがない。

 千陽の周囲に黒い影が落ちる。

『――千陽。お前、そんな酷いことを考えていたのか? 俺たち親友なのに』

 千陽の背中から「もう一人の宗一」の声が聞こえて慌てて振り返った。その瞬間、千陽は砂利でバランスを崩して川の中に落ちた。派手な音を立てて、水飛沫が高く跳ね上がる。

「おい、千陽! 大丈夫か?」

 すぐに体を起こす気にならなかった。

(もう、頭が、変になりそうだ)

 もう一人の宗一なんて、いるわけがない。あれは、千陽が生み出した幻想だ。

 ばしゃばしゃと水音を立てながら宗一が千陽のところまでやってきた。

 初夏の高い空が、白い日差しが、眩しくてたまらなかった。浅瀬なので溺れたりはしないが全身水浸しになった。自分は一体、何をしているのだろう。

「千陽」

「……あ、うん。全然、大丈夫」

「水浴びするにしても全身ダイブするにはまだ早いだろ。風邪ひくぞ」

 宗一はそう言って千陽に手を伸ばした。千陽は宗一の手を取るのに少し迷っていたが、空中で止まっていた手を宗一に掴まれて、そのまま川から引き上げられた。骨ばった大きな手にしっかりと手を握られている。

 宗一は、もうあの頃と同じ子供じゃない。

 千陽の目の前にはちゃんと宗一がいるのに、宗一が遠かった。

「てか、大事なこと忘れてたんだけどさ」

「ん、なにを?」

 二人で手を繋いで岸にあがると、宗一は気まずそうに苦笑いした。

「川に入ったけどさ、俺、タオルとか何もないわ」

「……あー」

 千陽は全身ずぶ濡れだった。

 一体、何をしているんだろう。本当にバカみたいだ。

「千陽覚えてるだろ? お前と俺、昔、ここで一緒に水浴びしたよな」

 何も覚えてない。大切なことを自分は全部忘れてしまっている。

 ――それは千陽の罪だ。罪を認めて告白して、自分は――贖わなければ。

(どうして、こんなことを自分は考えてしまうのだろう)

 贖う方法は? 一体、誰に? よそものだった自分には、それらを知る術がない。

 ――村に帰ろう?

 ――ちゃんと、俺は、ここに、帰ってきたのに。

「小学生のときは俺らタオルないままでも普通に川にダイブしてたけど、もういい年した大人がさ、二人してバカすぎるだろ」

 宗一はそう言いながら、日差しで温められた小石の上を歩いた。それで足の濡れは多少マシになるだろうが、千陽は水濡れのまま帰るしかなさそうだった。

「千陽どうする? ここで待ってるか? 俺タオル持ってくるけど」

「いいって、二度手間だし、このままで」

「じゃ、着替えに一旦、俺の家帰ろうぜ」

「そうだな。ごめん」

「全然。てか時間なんて有り余ってんだし、家で休憩してから出直そうぜ」

 ひとしきり足を乾かした後は、二人で宗一の家に戻った。

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