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おかえり



 校舎の中を歩き回って捜し回ったが、六時を過ぎても宗一は見つからなかった。宗一が姿を消したのは千陽が目を閉じたほんの少しの間の出来事だった。

 連絡しようにも携帯電話は宗一の家に置いてきている。

 千陽が建物の外に出たときには日が暮れていた。玄関に掲示されていた校舎の利用時間の終了が近づいている。

「宗一……どこに行ったんだろう」

 校舎を背にして、校庭の向こう側に広がる村を見渡すと、ぽつり、ぽつりと街灯や家の灯りがつき始めた。

 千陽の目に映るのは優しい田舎の原風景だ。それなのに胸のふちをチリチリと焼くような焦燥感が千陽の不安をかきたててくる。

 村の灯りが怖い。その灯り一つ一つが得体の知れない村の化け物を覆い隠しているように見えた。

 この村には昔と同じように日々の生活を営む人々がいる。その光景に不安を覚える自分の方が変だ。分かっている。今日訪れた高里さんの家以外にも村人が居るのは当たり前だ。――けれど。

「あの辺り……空き家だったよな」

 この村に再び足を踏み入れた日。宗一が歩きながら空き家だと言っていた辺りの家からも灯りが見えていた。それだけじゃない。

 人が、いる。

 ガチャン、と背後で校舎の玄関に鍵をかける音が響いた。後ろを振り向くと、窓ガラス越しに黒い影が奥に歩いていく姿が見えた。

 廃墟ばかりだと思っていた村から、たくさんの音が聞こえてくる。遠くではしゃぐ子供の笑い声、学校前の道で行き交う人々が世間話をする声。車の走る鈍い音。

 千陽が子供の頃は、登下校中に村を歩いていても村人の暮らしぶりは少しも見えてこなかった。千陽の目にはそれが恐怖として記憶されている。けれど今は、千陽がずっと知りたかった彼らの日々の生活が目の前に広がっている。

 ――千陽、おかえり。ずっと、待ってた。

 さっきの宗一の言葉が耳元で響いた。

 ここは千陽が来たかった本当の村だった。

 ずっと仲間に入れて欲しかった。

 けれど千陽だけが入れてもらえなかった。寂しくて悔しかった。

 村の人から見て、千陽だけが村の異物で、よそ者のままだった。自分だけが、化け物みたいだと思っていた。

 憎い、許せない。

 千陽は思わず耳を塞いでその場に膝をついた。その場で項垂れていると、背後の校舎から校内放送を知らせる鉄琴の音が鳴り響いた。音は山にぶつかってこだました。不安定な音は重なって村へ広がっていく。

 続いて、掠れた夕焼け小焼けが流れ始めた。

 千陽は顔を上げ微動だにせず音楽を耳に受け入れていた。曲が最後まで終わると校内放送は女の子の声に変わる。

 ――本日、⚫︎⚫︎⚫︎村▲▲▲神社で、毎年恒例の夏祭りが開催されます。住民の皆様は奮ってご参加ください。

 再び鉄琴が鳴ったあと、プツ、と糸が切れるような音でアナウンスは終わった。流れていたのは録音だったようだ。

 千陽はふらふらと地面から立ち上がると、宗一を捜すため村の中へ足を進めた。

 住宅街の中を歩いていると、玄関前で会話をしているエプロン姿の女性たちや、仕事帰りの作業着の初老の男性とすれ違った。村人は皆、千陽の顔を見て朗らかに挨拶をしてくれる。

 ――こんばんは、昼間、変な天気だったわねぇ。

 ――こんばんは、今日は夜、お祭りに行くの?

 この村に、こんなに住人がいるとは思えなかった。

 ここは、どこなのだろう。自分は一体どこに迷い込んでしまったのだろう。千陽はあてどなく村を彷徨っていた。

 これは子供の頃に宗一が見ていた風景だと思った。これは千陽がずっと欲しかった思い出だ。けれどこの光景はもう手に入らない。千陽はよそさんのまま外に出ていってしまったから。

 千陽は住宅地を抜け宗一の家まで続く山際の古道を歩いていた。頭上の街灯の間隔は遠く、足元がよく見えない。

 ふと、前方から藍色の着物を着た老婆がこちらに向かって歩いているのが見えた。こんな暗い夜道なのに、千陽の目には老婆の輪郭だけがはっきりと見えた。近くまで来ても老婆の腰が曲がっているせいで表情が判別できない。かろうじて口元だけは見えた。

 正面に来たとき千陽が軽く会釈すると、その場で老婆は足を止めた。

「あぁ、おかえりなさい、千陽くん」

 ゆっくりと落ち着いた声で話しかけられて、千陽は肩を震わせた。

 この老婆はどうして千陽の名前を知っているのだろう。千陽がこの村で過ごしたのは数年間だし姿も変わっているのに。

「あの……どうして、俺のこと」

 千陽はおずおずと返事した。

「どうして? 駅前の喫茶店をしていた水城さんだろう。お帰りなさい、また村でお店してくれるんかねぇ」

「い、いえ……店は」

「そうかい、残念だねぇ」

 老婆は千陽が駅前で喫茶店をしていたことを知っている。もう十年以上前の話だ。千陽は恐ろしくて、足を一歩後ろに引いた。老婆は千陽が引いた分、前に距離を詰めてくる。

「あ、あの、俺、村には旅行で来てて」

「そうかいそうかい、旅行か。ずっとここにいてくれていいのにねぇ。千陽くんはね、うちのひと、大事な、ね」

「うち……」

「そうだよ」

 老婆の口角が上がり、濁った歯の色が街灯の青白い光に照らされて見えた。

「あ、ありがとう、ございます。その……宗一を見ませんでしたか?」

「宗一?」

 千陽の尋ねに老婆は首を傾げた。

「この道の先にある一軒家に住んでいて、両隣は空き地になっているんですけど、俺と同じ歳で」

 千陽のたどたどしい説明に老婆はうんうん、と首を縦にゆっくりと振った。

「俺の親友で……さっき学校ではぐれちゃって、俺、捜しているんです」

「宗一、知らないね、宗一なんて子は、知らない」

 焦った千陽の声にも、老婆は首を横に振るだけだった。変だ。宗一は千陽より長く村に住んでいて、まだ家もある。村の寄り合いにも参加している宗一を彼女が知らないはずがない。老婆は嘘をついている。千陽は焦って言葉を続けた。

「秋月、秋月宗一です! 村にずっと住んでいて」

 千陽がそう続けると、思い出したかのように老婆は相槌を打った。けれど老婆の声には嫌悪感が滲んでいた。さっきまで千陽に向けていた優しい声と真逆の汚物を吐き捨てるような物言いだった。

「秋月、あぁ、あの恩知らずの家か。村がみんなで育ててやった恩も忘れて、勝手に外へ行ったんだ。あんな子はね、もう、よそさんだからねぇ」

「え……なに……言って」

 にぃと笑ったままの老婆は千陽の腕にしわくちゃの手を当てた。

 ――よそさん。

 嫌悪が滲むそれは本来目の前の千陽に向けられる言葉だったはずだ。どうして宗一がそんな冷たい言葉を浴びせられなければならないのか。千陽が宗一で、宗一が千陽になっている。

「でもね、水城の家の人はねぇ、村に帰ってきてくれると思っていたよ。昔から期待していたんだ。だからね千陽くん、心配せんで、いへひとんならんせ」

 老婆とは思えない強い力でぎゅうと腕を掴まれた。老婆の爪が千陽の腕にぎりぎりと食い込んだ。

 千陽は思わず腕を振り払ってしまった。老人とは思えない指の力だった。

「どうした、千陽くんは、村にずーっと、入りたかったんでしょ」

「い、いやっ、俺は……」

 後ずさる千陽に、老婆は一歩、また一歩と距離を詰めてくる。

「あの山の祠のところから、こっちを見なさって。村の人ら、みーんな可哀想にと思ってた。早く入れてあげればいいのにって。私も思っていたよ」

「違っ、お……俺は」

 千陽は思わず首を横に振った。千陽がずっと望んでいたものが目の前に差し出されている。かつて宗一がいた居場所。

 けれど、今の千陽はそれを欲しいとは思えない。いらない。こんな歪な村のうちになんて入りたくない。

「千陽くんは村にとって宝だった。だからね、もう秋月は村にいらない家」

「何……言って、そんな、俺は……し、失礼します」

 千陽は老婆の横を走り抜け、舗装されていない道を転びそうになりながら走り宗一の家に向かった。

 ふわり、ふわりと、村に、山に、赤い明かりが灯っていく。

 千陽とすれ違っていく彼らは、みんな千陽の顔を見て優しく挨拶をしてくれた。

 ――あら、水城さんところの、駅前に戻ってきてくれたのねぇ。

 ――違う。

 ――おかえりなさい。

 ――俺の、帰りたい場所は。

 ――ずっと、入りたかったんでしょう。

 ――俺が来たかったのは、ここじゃない。

 宗一の家に辿り着き、引き戸に手をかけると鍵は開いていた。

「宗一!」

 内側からは誰の声も返ってこない。

 宗一の家は、元から空き家だったかのように静まり返っていた。

 千陽は力なく玄関に腰をかけ耳を塞ぐ。

 朝になればこの悪夢は終わる。そう信じて千陽は目を閉じた。


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