遡ること~小学6年生・6
――さすがに中岡さんの息子だな。
そんなことをいわれるなんて記憶にないくらい昔のこと。もう、パパがプロ野球選手だったことなんて忘れられている。だから、前の学校でもいわれることはなかった。
だけど……やっぱり野球はダメなんだ。
家族をバラバラにしたんだから。ママを悲しませるから。
もう、ママの涙はみたくない。
弾んでいたぶんだけ、心は落ちていた。
そんな僕の気持ちなど無視するように、声が飛んでくる。
「ほら、どうした。どんどんこい!」
僕はボールを握りしめたまま、足を踏み出した。
ボールをポケットにしまい、グローブを手からはずす。そして、ユイのお兄さんの前で足を止めた。
下を向いたまま、何も言うことなく、それを差し出す。
だが、グローブは手に残ったままだ。
「疲れたか?」
その声に、顔を上げることなく首を横に振る。
声は返ってこない。
ちらりと視線を上げると、どこか悲し気な目と合ってしまった。
手からグローブがはなれていく。
僕は軽く会釈し、背を向けて足を踏みだした。なんだか足が重い。それでも止めずに歩いた。
その声が聞こえるまでは。
「もちろん、中学にいったら野球部に入るんだろ?」
軽く投げかけられた言葉なのに、僕は振り返っていた。
悪気なんてないだろうし、僕の目に映っているのだってにこやかな顔だ。でも、その顔が消えていく。僕が睨んでいたのかもしれない。ユイのお兄さんの顔が、どこか不安気になっている。
それでも止められない。もう気持ちは言葉となって溢れてしまう。
「何も知らないくせに!」
野球部になんて入れるわけがない。
ママが悲しんじゃう。
パパも野球も忘れるためにここ(立見)にきたんだ。
心の中で叫んだ声は言葉になることなく、目からあふれた。
すぐに腕でぬぐって、手をポケットに突っ込んだ。そして、握ったボールを地面に叩きつけた。
こんなものを持っているからいけないんだ。だから、このまま行けばいい。こんなものなど捨てて。
だけど、足が動かない。汚れたボールが僕を見つめている。
すっと伸びた手がボールを掴み上げている。
「こんなになるまで……」
親指がキズだらけのボールを撫でている。
僕へと向けた顔がにっこりほほ笑み、「野球好きなんだろ?」
僕は唇を噛み締めた。
「こんなになるまで」、ボールを見つめ、「相当練習してきたんだよな」
優しい顔が、目が、僕へと向かってくる。
心の中から思いがあふれてくる。止めようとしても、漏れるように言葉が流れ出てしまう。
「……好きだよ。野球が大好きだよ」
その後、僕はユイのお兄さんと向き合って、芝生の上であぐらをかいていた。そして、胸の中にある全てを話していた。
親しいわけでもないのになぜだろう。優しい眼差しと、大きな体が何もかも受け止めてくれる。そんな感じがしていたからかもしれない。
僕の話を黙って聞いていたユイのお兄さんは、「お前さんは優しいな」、といって後ろにごろりと寝転んだ。
そして、空を見つめている。
なんとなく、僕もごろりと寝転んだ。
目の前には青い空だけが広がっている。
微かに鳥の声だけが聞こえる静かな空間に言葉が流れてくる。
「野球が悪いわけじゃない。もちろん、お前さんが悪いわけでもない。母ちゃんが悪いわけでもない。父ちゃんだって……悪いわけじゃない」
聞こえてくる声を心で感じていた。
「もし、何かが悪いとしたら、お前さんの父ちゃんに取り付いちまったやつのせいだ」
突然、起き上がったユイのお兄さんが、ごめんな、とあやっまてくる。俺にはどうしたらいいかわからないと。
僕は黙ったまま、空を見つめた。
「だけど、思うんだ。お前さんはガキでいいんじゃないかって。まだまだ無邪気なガキでいいんじゃないかって。好きなことは好き、やりたいことはやりたい。それでいいんだよ」
動いた視線の先で、大きな顔が微笑んでいる。
「お前さんの母ちゃんの気持ちはわからんけど、お前さんが胸に何かを抱えて苦しんでいるのは伝わっていると思うぞ。だから、気持ちを言葉にしてぶつけろよ。そしたら、きっと――」
言葉は止まり、ぼりぼりと頭をかきながら、
「あぁ、だめだ。なんていうのかな、ほら……くそっ! 俺自身が気持ちをうまく言葉にできねえじゃないか」
僕のために必死になってくれている姿に、自然と体を起こしていた。
「大人のくせに」
ありがとうの意味をこめると、自然と笑顔になっている自分がいた。
夕食の時、ママもじいちゃんもばあちゃんもいる、その場で僕の気持ちを口にした。
「中学に入ったら、野球をやりたいんだ」
そう言った時、その場は静まり返っていた。テレビの音さえ消えてしまったかのように息苦しかった。
下を向いたまま視線を上げることができない。ママの悲し気な顔が浮かんでくる。涙さえも……。
「そっか、わかった」
そんな声に思わず視線を上げた。
目の前にママの顔がある。
笑顔――無理矢理ほほ笑んでいるように見える。
ママの心の中が伝わってくる。悲しんでいるのかもしれない。苦しんでいるのかもしれない。
ごめん――浮かんでくる思いを沈めるために、心の目を閉じた。
僕は食べ終わった食器を手にしながら、ありがとう、と声をかけて、台所へと向かった。そして、流し台にそれを置くと、逃げるように自分の部屋へと足を向けていた。




