第三話 十二色の衣②
穏やかな夕食の時間が終わり、夜の帳が下りた外を眺めるすみれの横顔を、俺はただじっと見つめていた。
室内の柔らかな照明と、暖炉で爆ぜる薪の火。
そして庭園に置かれたわずかな灯りに照らし出された彼女の表情は、どこまでも穏やかで、吸い込まれそうなほど清らかだ。
……不思議だ。眺めているだけで胸の奥が静かに満ちていく。
けれど同時に、底の方がひりつく。触れたくて、触れてはいけない気もして。
「何を見ている?」
背後から声をかけると、彼女は小さく肩を揺らし、愛らしい仕草でこちらを振り返った。
一瞬だけ驚いた目。すぐにほっとしたように緩むまなざし。
——俺を見て安心する、その癖が胸に刺さる。
「暁臣様……。雪が、また降り出したみたいで……」
「道理で冷え込むわけだ……これ以上、お前の体が冷えては困る」
そう言いながら、彼女の細い肩を背後から包み込むように抱きしめた。
腕の中に収まってしまうほどの華奢な体躯。
骨ばった輪郭の上に、ぬくもりがかろうじて乗っている。
うなじからふわりと漂うのは、清廉な花の香りと、彼女自身の体温が混ざり合った甘い匂いだ。
着物の襟足から覗く白い肌、無防備に晒されたその首筋。
俺にすべてを預けているその姿に、心の奥底で澱んでいた、どうしようもないほどの劣情が静かに煽られる。
——守りたい。壊したくない。
なのに、触れれば触れるほど、もっと欲しくなる。
「すみれ、こちらに」
彼女を促してソファに腰掛けさせると、用意していた白い小箱を手渡した。
指先に吸い付くような紙の感触。彼女は受け取った瞬間、持っていいのか迷うように手を止めた。
「……?これは……」
「十九歳の誕生日、おめでとう。すみれ」
「十九……?あ……」
昨年は、彼女の誕生日を知ったときにはすでにその日を過ぎていた。
祝うことすら叶わなかったあの日を思い出す。
あのときの俺は、まだ間に合わなかったことを悔やむ資格すらない立場だった。
——ただ、遅れて手を伸ばしただけの男だ。
すみれの瞳がわずかに揺れ、困惑したように手元の箱に視線を落とした。
自分の誕生日がいつなのか、祝われることがどれほど特別なことなのか。
そんな当たり前のことさえ、彼女は知らないまま生きてきたのだ。
その事実が、胸の奥を鈍く締め付ける。
「今年は、当日に祝うことができた」
「あの……これ、本当に私に……?いただいても、よろしいのでしょうか」
いまだにこうして、自分への贈り物を受け取ることすら戸惑い、怯えたような表情を見せる。
彼女に贈るものすべてが、彼女にとっては未知の経験。
そしてそれは同時に、彼女がいかに『無華』として、家族からも世界からも蔑ろにされてきたかの残酷な証明でもあった。
——俺はその穴を、少しでも埋められるのか。
「どうした?気に入らなかったか」
「……いえ、そんな……。なんだか、胸がいっぱいで……開けるのが、もったいなくて」
「お前に使ってもらわないと、箱も中身も、それこそ可哀想だ」
すみれは箱を膝に乗せ、震える細い指先でリボンを解いた。
宝石でも扱うかのような手つきで、遠慮がちに蓋を開ける。
呼吸まで慎重で、俺の方が息を止めてしまう。
「……これ、は……腕時計、ですか?」
「あぁ。俺が愛用しているのと同じ工房に、女性向けに特注して作らせた」
「同じ……」
「すみれ、腕を貸してくれ」
その小さな手を取り、箱から取り出した腕時計を彼女の左手首に添えた。
特別に細く作らせたはずのベルトの穴が、一番奥で留めてもなお、わずかに余る。
以前より食事が摂れるようになったと喜んでいたが、実態はまだ、健康な女性の半分にも満たない細さだ。
掌に伝わるその骨の感触に、あらためて彼女の儚さを思い知らされ、胸が締め付けられるような心配に駆られる。
俺は、足りない。もっと守りたい。もっと暖めたい。
もっと、ちゃんと——。
「……よく似合っている」
「こんなに……繊細で、綺麗なもの。私が身につけても、よいのでしょうか……」
すみれの手を取り、甲にそっと唇を寄せた。
これからの彼女の人生が、光に満ちたものであるように。
苦痛に震える秒針ではなく、愛に満ちたときを俺と共に刻んでいけるように。
そんな願いを、言葉にせずとも伝えたくて、唇を離すのが惜しくなる。
「すみれ。今まで、お前は数え切れないほどの苦難を一人で背負ってきたはずだ。俺の傍にいることで、これからも不自由や、心ない言葉を浴びることもあるかもしれない」
本当なら、俺のような男ではなく、もっと平穏な身分の男と縁を結んだほうが、彼女にとっては健やかな生活が約束されただろう。
そんなことは、百も承知だ。
だが、俺はもう、彼女を手放すことができない所まで来てしまった。
この腕の中の温もりを失えば、俺はまた冷たい場所に戻る。
——そんな気がしてならない。
「それでも、お前が笑っていられるよう、俺が一生をかけて傍で守ると約束する」
「暁臣様……」
「俺と、同じときを過ごしてくれ……いいな?」
すみれの虹彩に輝く瞳が大きく揺れ、やがて大粒の涙が零れ落ちた。
彼女が俺の前で涙を見せたのは、あの蔵から救い出し、お邸に留まるよう告げたとき以来、二度目のことだ。
泣き方が、声を殺している。
泣くことさえ許されなかった癖が、まだ残っている。
「……私、ずっと……暁臣様とご一緒に……いたくて……それだけで、幸せなのに」
細く華奢な体を抱き寄せると、彼女は素直に俺の胸にもたれかかってきた。
この小さな体で、これまで『無華』という過酷な運命をたった一人で耐えてきたのかと思うと、彼女を傷つけたすべてに対して底冷えするような怒りが込み上げる。
だが、その不幸があったからこそ、彼女は誰にも見つからず、汚されず、俺と出会えたのもまた事実なのだ。
——それが一番、醜い。
救ったと思いながら、奪っている。
「こんな……贅沢な……欲張りになってしまいます……」
「贅沢などであるものか。もっと欲張りになってもいいくらいだ」
頬に手を添えると、彼女は潤んだ瞳で俺を見上げ、吸い寄せられるようにゆっくりと瞼を閉じた。
外では、雪が相変わらずしんしんと降り積もっている。
互いの鼓動と体温を確かめ合うように、俺たちは深く、静かに身を寄せ合った。
暖炉の火が爆ぜる音が、妙に近い。——世界が二人ぶんだけに狭まっていく。
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