第三話 十二色の衣③
朝、目が覚めるとまずは一杯の白湯をゆっくりと飲み、身体を温める。
喉を通る温かさが、眠りの名残をほどいてくれる。
顔を洗い、歯を磨いて身なりを整える。髪を指先で撫でて、昨日より絡まりが少ないことにほっとする。
そして最後に、昨夜暁臣様にいただいたばかりの腕時計を、そっと左手首に巻く。
私の静かな朝の日課に、新しく、そして何よりも愛おしい時間が加わった。
留め具を閉める瞬間、金属が小さく鳴る。その音だけで胸がきゅっとなる。
朝日の清々しい光を浴びて、白く光る文字盤の上を金の針が規則正しく刻んでいる。
刻む、という言葉がしっくりくるほど、針の動きは迷いがない。
少し前までの私は、時間という概念すら曖昧で、時計の読み方すら知らなかった。
そんな私が、これほどまでに気高く美しい品を身に着けているなんて。
「……綺麗」
起きて一番に思い出すのは、いつだって暁臣様のこと。
それだけのことが、灰色だった私の一日を一気に鮮やかな色で彩ってくれる。
でも同時に、胸の奥が小さく揺れる。
——この幸福は、触れたら消えてしまうのではないかと。
毎朝目覚めるたびに、昨日までの幸福はすべて夢だったのではないかという言いようのない不安に襲われるけれど、手首に残る金属の冷ややかな感触と重みが、それが現実であることを静かに証明してくれた。
冷たいのに、安心する。矛盾しているのに、今の私にはそれが当たり前になっていた。
「また、それを見ているのか?」
ふいに扉の方から低く柔らかな声がして、私は肩を跳ねさせた。
そこには、扉の枠に背を預けてこちらを眺める暁臣様の姿があった。
よりによって、腕時計に頬ずりするように見つめていた所を見られてしまったことに気が付き、一気に顔が赤く染まっていく。
「暁臣様……!あの、これはその……」
「大切にしてくれているなら、贈った甲斐がある……仕上げに、俺が髪を梳かしてもいいか?」
「え……はい。お願いいたします」
鏡の前に座る私の背後に立ち、彼は大きな手で丁寧に、一本一本の縺れを解くように櫛を滑らせた。
櫛の歯が髪を通る音が、妙に耳に残る。
触れ合っているのは髪の毛だけなのに、鏡越しに視線が重なるたび、心臓が壊れそうなほど緊張してしまう。
息をするのも忘れそうで、唇だけが小さく乾いた。
「お前の髪は、いつまでも触れていたくなってしまうな」
密やかな囁きとともに、一掬いされた髪に暁臣様が唇を寄せた。
鏡の中に映る、私の髪を慈しむ彼の仕草があまりに熱を帯びていて、呼吸を忘れてその光景から目が離せなくなる。
頬の内側がじんわり熱くなり、指先が落ち着きなく膝の上で揺れた。
「行こう。朝食が冷めてしまう」
「……はい」
こうして向かい合って朝食を摂る時間も、ようやく日常として馴染んできた。
カトラリーが触れる音、皿に落ちるパン屑の小さな音——
どれも、ここにきて初めて聞く生活の音。
今日、暁臣様が纏っているお召し物がスーツなのか、あるいは軍服や別の正装なのか。
それを見るだけで、今日は学校へ行かれるのか、あるいはお仕事の日なのか、予想がつくようになってきた。
少しずつ、暁臣様の一日が、私の一日に織り込まれていく。
「……あの、暁臣様は、洋食がお好きなのですか?」
ずっと胸の中にあった素朴な疑問を口にしてみた。
口に出した瞬間、自分でもおかしいくらい緊張して、指先がカップの縁をそっとなぞる。
暁臣様のご実家である本宅は、伝統的な和洋折衷の重厚なお邸だった。
けれど、今私たちが暮らしているこの邸は、ほとんどが洋室で構成されている。
床に敷き詰められた幾何学模様の絨毯、窓辺を飾る複雑な意匠のカーテンや照明……。
和室は離れにある茶室と、他にごく数室あるのみ。
「そうだな。多感なとき期に英国に留学していたから、こちらの方が馴染みがあるのかもしれない」
「えいこく……?」
「あぁ。十三の頃から、四年ほどな」
四年間も、海の向こうの知らない国で過ごされていたなんて。
私がずっとあの狭く暗い蔵の中で、そこが世界のすべてだと信じ込んでいたそのとき。
暁臣様は広い海を渡り、見たこともない景色の中で生活をされていたのだ。
同じ年頃の頃のはずなのに、彼の時間は、私の時間より遥かに広い。
私の知らない、暁臣様の二十年という月日。
もっと早くお会いできていたら。
もっと多くの時間を共に過ごし、思い出を重ねることができていたら。
仕方のないことだと分かっていても、埋めようのない時間の溝に、どうしようもなく胸が寂しさで疼いてしまう。
——私が知らない暁臣様が、たくさんいる。それが少し、寂しい。
「……すみれ、行きたい国はあるか?」
「えっ?」
「英国でも、仏蘭西でも、米国でも。お前が望む場所なら、どこへでも」
海外……。
私が、異国の地に?
『どこへでも』と言われた瞬間、あまりに想像の範疇を超えた話に、目の前が真っ暗になるような眩暈を覚えた。
海。船。知らない言葉。知らない街。
私一人で、そんな遠い場所へ放り出されてしまったら——。
「……もちろん、俺と一緒に、だ」
けれど、すぐ後に続いたその一言で、言葉の意味が劇的に変わる。
不安で凍りつきそうだった胸が、一気に温かな安心感に包まれた。
彼の『一緒に』は、約束だ。置いていかないという、当然の約束。
「……はい。ご一緒に……どこへでも、参ります」
暁臣様は、私を独りぼっちにはさせない。
どこへ行くにも、私の手を引いてくださる。
その手がある限り、世界は怖いだけの場所ではなくなる。
二人で眺める異国の空。
まだ全く想像がつかなくて少し怖いけれど、彼の手を握ってさえいれば、私の世界はどこまでも広く、鮮やかに開けていくのだと確信できた。
腕時計の針が刻む音が、今は少しだけ誇らしく聞こえる。私の時間が、確かに前へ進んでいる。
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