第三話 十二色の衣①
喫茶店の重い扉を押し開けると、そこは外の凍てつく寒さが嘘のような、別世界が広がっていた。
赤々と燃えるストーブの火。鼻腔をくすぐる、香ばしくも深い珈琲の香り。
食器が触れ合う軽やかな音と、人々の低い話し声。
東宮御所で感じた、あの喉の奥が詰まるような緊張が、店内の琥珀色の空気の中にほどけて溶け出していく。
肩が、少しだけ下がる。
息ができる。——ここなら、私も息をしていい。
「俺の方で頼んで構わないか?」
「……はい。お願いします」
暁臣様はそう短く告げると、手慣れた様子で店員に注文を済ませた。
促されて向かい合って座ると、テーブルを挟んで自然と視線が重なる。
窓の外で降り続く雪が、どこか遠い世界の出来事のように思えた。
さっきまでの視線や拍手が、硝子の向こうへ押しやられていく。
運ばれてきたのは、白い磁器の皿に乗った小さなカップ。
黒に近い褐色の液体からは、ゆらゆらと細い湯気が立ちのぼっている。
「……これ、は……?」
「珈琲だ。飲んだことはあるか?」
「こ、こー……ひー……。いえ、一度も」
何度か暁臣様と一緒にこうした店を訪れたことはある。
そのときに口にしたのは、レモンが添えられた紅茶。
漂ってくるこの独特な香りが『珈琲』という飲み物だとは教わっていた。
けれど、こうして実物を目の当たりにするのはもちろん、口にする機会など一度もなかった。
「熱いぞ。慌てて舌を焼くなよ」
暁臣様は先にカップを持ち上げ、何でもないような優雅な所作で口をつける。
湯気の向こう、伏せられた長い睫毛さえ絵画のように美しく、私はつい、まじまじと見つめてしまった。
……見惚れている場合じゃないのに。
そう思っても、視線が外れない。
私も見よう見まねで、冷えた指先でそっとカップを包み込む。
陶器の熱がじわりと伝わって、指先の冷えが少しだけほどける。
鼻先をくすぐる匂いは、少し焦げたような、それでいてどこか清々しい、言葉では言い表せない初めての香りだった。
深い、黒い、でも嫌じゃない。むしろ、惹かれる。……怖いのに。
こんなに真っ黒な飲み物。一体どんな味がするのだろう。
期待と不安を抱えながら、そっと唇を湿らせた瞬間——。
「っ……!」
舌の奥に、きゅうっと鋭い苦味が突き刺さった。
に、苦い……っ。
目の奥がきゅっと縮んで、肩が跳ねる。
あまりの衝撃に慌てて飲み下したけれど、喉を通っていく間もずっと、口の中が『苦い』という未知の感覚で大騒ぎしている。
「どうした。口に合わなかったか?」
「い、いえ……その……」
顔が熱い。二口目を啜る勇気がどうしても湧かず、カップを持ったまま、思わず目をきゅっと閉じてしまった。
情けなくて、恥ずかしくて、でも——本当に苦い。
どうして暁臣様は、こんなに厳しい味がするものを平然と飲まれているのだろう。
ひょっとして、私のだけ違う飲み物なんじゃ……。
いえ、暁臣様がそんな子供染みた真似をされるはずがない。
……ない、のに。悪戯っぽい目をしている気もする。
私はもう一度、勇気を振り絞ってほんの少しだけ口をつけてみた。
さっきよりも慎重に、量を減らしてみたけれど、やっぱり私の舌は悲鳴を上げてしまう。
喉が、きゅっと縮む。飲み込みたいのに飲み込めない。
「……どうだ。感想を聞かせてくれ」
「……その……とっても、苦くて……」
自分でも情けないほど細い声が出てしまったと思う。
「ぷっ……くくっ、ははは!」
暁臣様は、私の反応をじっと観察していたかと思うと、突然吹き出すように笑い出した。
その笑い方が、なんだか悔しいのに、むしろ、胸の奥がほどけてしまう。
「すまない……すみれがそういう反応をするだろうな、と分かっていて、つい意地悪をしてしまった」
暁臣様の瞳には、悪戯が成功した子供のような、それでいてひどく優しい色が宿っている。
彼は私の手からそっとカップを取り上げると、それを自分の方へ引き寄せ、通りかかった店主を呼び止めた。
「悪いが、こちらの珈琲は引いてくれ。代わりに——これを。クリームを多めにできるか?」
暁臣様がメニューの一角を指差すと、店主は心得たように深く頷いて下がっていった。
私のせいで恥をかかせてしまったのではないか……。
そればかりが気になって、指先を弄んでしまう。
袖口の縫い目をなぞって、落ち着こうとする。
身分の差や、経験のなさを改めて痛感し、少しだけ胸がチクリと痛んだ。
けれど、そんな私の沈んだ気持ちを弾き飛ばすように、「お待たせいたしました」という明るい声が響いた。
目の前に置かれたのは、ガラスの器に乗った不思議な食べ物だった。
「……っ、わぁ……!」
思わず、感嘆の吐息が漏れる。
先ほどの珈琲と同じような黒いものが、宝石のように艶やかな固形となって、透明な器に鎮座している。
お皿が揺れるのに合わせて、プルプルと、まるで生きているみたいに可愛らしく震えている。
その上には、たっぷりの生クリームと、鮮やかな真っ赤なさくらんぼ。
白と黒と赤。たった三色なのに、こんなにも華やかだなんて。
「珈琲ゼリーだ。これなら少しは食べやすいだろう」
「こーひーぜりー……」
促されるまま、恐る恐るスプーンを手に取る。
真っ白なクリームと、漆黒のゼリー。
その境界線をすくい上げ、口に運んだ。
「っ!?……あ……!」
舌に触れた瞬間、先ほどと同じ深い苦味が広がる。
けれど、すぐにそれを追いかけるように、クリームの濃厚な甘さと滑らかさが混ざり合った。
苦いのに、やさしい。黒いのに、どこか温かい。
あんなに苦くて飲み込めなかったはずの味が、嘘のように心地よく口の中で広がっていく。
驚きのあまり、私は目を丸くして暁臣様を見返した。
「どうだ、これならいけるか?」
「な、なんだか……口に入れた瞬間、柔らかく崩れて……。苦いのに、甘くて……不思議です」
「ふっ。食べられそうだな」
「はい……!とても、おいしいです……!」
そっと、二度、三度、と、スプーンを進めた。
舌の上でとろけるゼリーの食感と、鼻に抜ける珈琲の香り。
口の中で黒がほどけていくのに合わせて、心の中の固さまで少しずつ溶けていくみたいだった。
暁臣様は、こうして私を外へ連れ出すたびに、私が知らない『世界の欠片』を教えてくれる。
この広い世界には、私の想像もつかないような美味しいものが、まだこんなに溢れているのだ。
「……本当に、お前は食べさせ甲斐があるな」
「……!」
暁臣様の言葉に、ハッと手が止まる。
どうしよう。夢中で食べている姿を見られて、食いしん坊だと思われてしまったかもしれない。
そう自覚した途端、顔がカッと熱くなるのが分かった。
「ふっ。さくらんぼより顔が赤いぞ」
「……もしかして、からかっていらっしゃいますか……?」
「まさか……ただ、こうしてちゃんと食事が摂れるようになって良かったと、心から思っているんだ」
暁臣様の声が、ふっと熱を帯びた。
確かに、保護されたばかりの頃の私は、一膳のお粥を飲み込むことすらままならないほどだったのに。
それが今では、こうして向かい合って、新しい食べ物の味を楽しみ、会話を交わせるまでになった。
匙を持つ指に、力がある。笑う余裕がある。——それだけで、胸がいっぱいになる。
『美味しい』と思えること。
明日も、その先も、こうして向かい合っていられると信じられること。
それが何よりも、今の私にとっては幸福な奇跡のように思えるのだった。
喉の奥に残る珈琲の香りが、苦くない。むしろ、少しだけ誇らしい。
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