第二話 ここにいていいと認めること②
茶会が佳境に入った頃。
東宮殿下が朗らかな声で切り出すと、彼の隣に座っていた女性が、羽衣が翻るような優雅な所作ですっと立ち上がった。
椅子が擦れる音すら控えめで、周囲の空気が一段、澄む。
「この度は、急な誘いにもかかわらず集まってくれたことに感謝する。この場を借りて、皆に紹介したい者がいる」
「近衛 綾乃殿。私の、そしてこの国の未来を共にする、東宮妃だ」
綾乃様……。
あの方が、いずれ皇后となられるお方。
会場からは溜息のような感嘆の声が漏れ、地響きのような拍手が沸き起こる。
白い手袋が揃って打たれ、宝石の光が揺れ、歓声が花のように開く。
その熱狂に当てられそうになった私に、隣の暁臣様が耳元で低く囁いた。
「今日の茶会は、実質彼女のお披露目だ。俺たちを呼んだのも、そのための数合わせに過ぎない」
暁臣様の視線は、熱狂に沸く上座をどこか突き放したように冷ややかに見つめている。
祝福の輪の外側から、静かに観察しているみたいに。
私は、自分たちの婚約が宣誓されたあの祝賀会の場を思い出さずにはいられなかった。
あのときの、疎らで、どこか困惑の混じった拍手。
『黒薔薇』と『無華』を前にして、祝っていいのか迷っているような——あの、微妙な間。
もし私が『無華』ではなく、もっと高貴な『華』を宿していたなら。
家格も、綾乃様のように申し分ないほど高かったなら。
暁臣様の隣に立つ私は、このように祝福の嵐に包まれていたのだろうか。
拍手は迷わず、視線は温かく、言葉は躊躇なく。
私の存在が、暁臣様に『祝福されない婚儀』を強いてしまった。
そう思うと、胸の奥を鋭利な刃でなぞられるような痛みが走る。
痛みは一瞬で、けれど確かに残り、呼吸が浅くなる。
私がいなければ——と、口にしてはいけない考えが喉元までせり上がってきて、慌てて飲み込んだ。
茶会が始まると、テーブルには季節の花の名を冠した繊細な菓子が並べられた。
淡い湯気を立てる茶碗からは、高貴な香りが立ち昇る。
甘い香りに救われるはずなのに、舌の奥が渇いて、味が分からない。
けれど、周囲のざわめきの中から時折放たれる、値踏みするような視線を感じるたびに、私は逃げ出したくなる衝動に駆られる。
笑っているのに目だけが冷たい人。
囁き合いながら、私の左右の瞳を確かめるように視線を滑らせる人。
俯いてしまいそうになる心を必死で繋ぎ止め、私は縋るように暁臣様の方を向いた。
彼の存在を瞳に映すだけで、ようやく顔を上げていられる。
——大丈夫。ここにいるのは私だけじゃない。
「暁臣。茶は楽しめているかな?」
「——東宮殿下。この度はご婚約、誠におめでとうございます」
不意に声をかけられ、暁臣様が立ち上がるのに合わせて私も慌てて椅子を引いた。
布が擦れる音がやけに大きく聞こえて、心臓が跳ねる。
東宮殿下は柔和な笑みを浮かべている。
けれど、なぜだろう。
彼は暁臣様と話しているはずなのに、その視線は暁臣様を通り過ぎるように、私の中身をじっと覗き込んでいるような、奇妙な感覚に陥る。
肌を撫でられるのではなく、私自身の形を確かめられるような——逃げ場のない見方。
「暁臣、そちらが例の……?」
「はい。私の婚約者になります」
「……あ、朝霞すみれと申します。この度はおめでとうございます」
言葉を絞り出すが、視線が怖い。
それは『無華』の瞳を蔑むような露骨な嫌悪ではない。
もっと、蛇に絡め取られるような、湿度のようなものと、逃げ場のなさを感じる視線。
下げた頭が金縛りにあったように動かせずにいると、背中にふわりとした暁臣様の温もりを感じた。
衣越しに触れる掌の熱。たったそれだけで、息が戻る。
その掌の熱に、ようやく金縛りが解けたように顔を上げることができた。
「そうか。図らずも同時期に婚約した身だ。互いに支え合わねばな。綾乃、挨拶を」
「すみれ様、近衛 綾乃と申します。お見知りおきを。よろしくお願いいたしますね」
間近で拝見する綾乃様は、千鶴様とはまた系統の違う、完成された美しさを持っていた。
ゆるやかに流れる真珠のような髪。
指先まで神経の行き届いた、非の打ち所がない所作。
この世に、これほどまでに優雅で、光り輝いて見える人が実在するなんて。
同性である私ですら、思わず見惚れてしまう……
「……よ、よろしくお願いいたします。朝霞すみれです」
挨拶を終え、風のように立ち去っていくお二人の後ろ姿を、ただ呆然と見送った。
拍手の残響が、遠くでまだ鳴っている。
かつて、千鶴様のようにならなければと焦って、浅はかな真似をしてしまった自分が顔を覗かせる。
もしも私が、あの綾乃様のように完璧に振る舞えたなら。
そんな、叶わぬ願いで頭がいっぱいになりかける。
また、同じ穴に落ちる。そう分かっているのに、癖みたいに手を伸ばしたくなる。
けれど——暁臣様は言ってくれたはずだ。
『すみれはすみれのままでいいんだ』と。過去の自分に引きずられてはいけない。
私なりに、私の精一杯で、彼の隣に立てる方法を探さなければ。
完璧じゃなくていい。逃げないことだけ、今日の私の役目だ。
不安を振り払うように隣を見上げると、暁臣様と視線がぶつかった。
一瞬、言葉はないのに通じるものがあって、胸の奥が少しだけ温かくなる。
「……これ以上ここにいる用事もない。晩餐に誘われる前に、ここを出るか」
「え……よろしいのですか?」
「用は済んだ。お披露目も終わったし、俺たちのことなど、もう誰も気になどしていない」
耳元で悪戯っぽく囁かれた冗談に、ふっと笑みがこぼれる。
たったそれだけで、どん底まで沈んでいた気持ちがふわりと浮上した。
もう、時折刺さる視線なんてどうでもいい。
私は彼の隣にいられれば、それで十分なのだ。
——そう思える瞬間が、今の私を生かしている。
暁臣様は言葉通り、晩餐の案内が始まる前に足早に玄関へと向かい、用意させていた車に乗り込む。
車内に入ると、外の冷気が閉じ込められて、息が白くなりそうだった。
車が動き出して少し経った頃、暁臣様がふと探るような視線を寄こす。
「……疲れていないか?」
「いえ、そういうわけでは……。ただ、少し圧倒されてしまっただけで」
「ならいい」
それきり、暁臣様はふいと窓の外へと視線を戻してしまった。
外では相応に冷え込んでいるのか、雪は静かに、けれど激しく降り続いている。
街路樹の枝に積み重なっていく白が、現実感を奪い去っていく。
さっき見た視線も、拍手も、眩しいシャンデリアも、雪の向こうへ溶けていきそうだ。
静寂の中で、暁臣様は何を考えているのだろうか。
あの『この世で一番遠い従兄弟』を前にしたとき、胸の奥で何が動いたのか。
私は尋ねたいのに、尋ねられないまま、ただ繋いだ手の温もりだけを確かめていた。
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