第二話 ここにいていいと認めること①
朝早くから、仕立て上がったばかりの訪問着に身を包み、暁臣様とともに車に揺られる。
帯の締まりがまだ新しく、背筋の奥にきゅっとした緊張が残っていた。
それでも、窓硝子の向こうを流れていく冬の景色を見ていると、胸の内が少しずつ落ち着いていく。
——隣に暁臣様がいる。それだけで、外の世界は怖いばかりではなくなった。
「はぁ……」
深い鉄紺色の三つ揃えのスーツを着こなし、長い足を組んで肘をつく。
車内に漂う微かな革の匂いと、彼の整髪料の香り。
その間を縫うように、ため息が落ちた。
窓の外を眺めながらこぼされた暁臣様のため息は、家を出てからこれで何度目だろうか。
数えるのはやめたのに、耳は勝手に拾ってしまう。
「あの、暁臣様……。やはり、お疲れなのですか?」
「……疲れてはいない。ただ、すみれとのんびり過ごせるはずだった数少ない休日を邪魔されたと思ったら、何度でもため息が出る」
不機嫌そうに、けれど私を責めるのではない響きで、彼はそう告げた。
その独占欲が混じった言葉に、私の胸は甘く疼く。
嬉しいのに、恥ずかしくて、視線が落ちそうになる。
私も、お邸で二人きりで過ごせる時間を惜しいと思ってはいたのだけれど——。
言葉にする勇気は、まだない。
それでも、暁臣様と一緒に外の世界へ出ることは、最近の私にとって小さな楽しみになりつつあった。
移ろいゆく季節、窓の外に流れる景色。
店先の赤い提灯、白い息を吐く人々、積もりかけた雪に小さく残る車輪の跡。
そのどれもが、彼の隣にいるだけでかけがえのない大切な思い出に変わっていく。
外は、昨日から降り続いた雪がしんしんと積もり始めている。
銀世界に変わりゆく景色を眺めていると、どうしてもあの日——初めて暁臣様と出会った日のことを思い出してしまう。
冷たい井戸端。濡れた袖。骨の奥まで染みる寒さ。
雪は、私を包む白ではなく、私を消す白だった。
かつての私にとって、雪はただただ寒く、体温と希望を奪っていく絶望の象徴でしかなかった。
けれど今は違う。雪を見れば、井戸の横でうずくまり、凍え死ぬのを待っていた私を見つけ出してくれた、彼の温かな声を思い出す。
あのとき、伸ばされた手。あの瞬間から、雪が怖くなくなった。
あの日から、私の灰色の世界は鮮やかに色づき始めた。
運命が、音を立てて変わったのだ。
指先が露出した擦り切れそうな着物を着ていた私が、今では私のために誂えられた絹の重みに包まれている。
肩には、暁臣様が『似合う』と言って贈ってくださった、柔らかな濃い紫色の毛足の暖かいストール。
指先で撫でると、ふわりと毛が起きて、熱が逃げない。
私、ちゃんと……ここにいる。
そう思えるのが、まだ夢みたいだった。
「……今日も帰りは、どこか喫茶店に寄ってから帰るか」
「いいのですか……?」
「もちろんだ。そのために、用件は早々に切り上げさせる」
ふっと暁臣様の唇の端が和らぐ。
それが、私と過ごす時間を誰にも邪魔されたくないという彼の意志の表れだと分かって、たまらなく嬉しくなる。
同時に、胸の奥がちくりとする。
——今日の『茶会』は、きっと穏やかなものではない。
「今日は、皇居へ伺うのではないのですよね?」
「あぁ。今日の茶会は東宮殿下——皇太子殿下の主催だ。場所は東宮御所になる」
「暁臣様の、従兄弟にあたるお方……ですよね?」
「そうだ。もっとも、この世で一番遠い従兄弟だがな」
『一番遠い』という言葉の裏にある冷ややかな響きに、私は思わず、腹違いの妹である百合のことを思い出してしまう。
血は繋がっていても、心は凍てつくほどに遠かった妹。
伯爵家の蔵で隠れるように生きてきた私にとって、『普通の従兄弟』がどのような距離感で接するものなのかは分からない。
けれど、暁臣様が抱くその複雑な感情の片鱗に、胸がちくりと痛んだ。
——遠いという言葉の中に、様々な感情が、諦めや哀しみが混じっている気がして。
車はやがて、大きな鉄門をくぐり、深い森のような並木道を進んで静かに停車した。
積もった雪が車輪の下でぎゅ、と短く鳴る。降り注ぐ粉雪は細かく、空気が刺すように冷たい。
暁臣様に手を取られて車を降りると、私の吐く息が、舞い散る粉雪に混じって白く消えていく。
「指先が冷たいな。寒くないか、すみれ」
「はい……。暁臣様の手が暖かいですから、大丈夫です」
「……そうか。だが、今度新しい手袋を買おう。肌に馴染む、質のよいものを」
『手袋』と言われて、ほんの少しだけ複雑な気持ちになる。
もちろん暖かいのは嬉しいけれど。
手袋をしてしまったら、こうして繋がれた掌から直接伝わる彼の体温が、遮られてしまうのではないだろうか。
名残惜しさを隠しきれず、私は繋がれた手をそっと見つめてしまった。
黒い手袋越しでも分かる、彼の指の長さ。私の手は、その中にすっぽり収まってしまう。
——守られている。そう思うと、怖さより先に、胸が熱くなる。
案内されたお邸は、以前お邪魔した暁臣様の本宅である、五条家をも凌ぐほどの、圧倒的な格調の高さを漂わせていた。
門から見える外壁の石は重く、雪を被ってなお揺るがない。
足を踏み入れた瞬間、空気そのものが違う気がした。
女中さんに導かれ、暁臣様の斜め後ろを歩きながら邸内を進む。
皇居の荘厳さともまた違う、磨き上げられた歴史の重みに気圧されそうになる。
床板が微かに軋む音さえ遠慮がちに響き、背中が勝手に強張る。
中庭に面した長い廊下を通る際、自分の吐く息の音すら憚られるほどの静謐さがそこにはあった。
通された広い客間には、気が遠くなるほど高い天井と、眩い光を放つ大きなシャンデリア。
光は宝石のように割れて、絨毯にまで降り注いでいる。
以前の私なら、この輝きに怯えてすぐに俯いていただろう。
けれど今は、藤波様や篠塚様との厳しいお妃教育の成果だろうか。
しっかりと背筋を伸ばし、顔を上げて周囲を見渡すことができている。
視線を落とさない。それだけで、私の中の何かが少しだけ強くなる。
自分の中に小さな『自信』が芽吹いていることに、安堵の溜息が漏れた。
ふと、華やかな人々がひしめく中で、私を射抜くような強い視線を感じた。
刺さる、というより、測られる。温度のない刃が肌の上を滑るみたいな。
導かれるように視線を送ると、上座に立つ一人の男性と目が合った。
けれど、その視線はすぐに、何事もなかったかのように逸らされる。
まるで、最初から見ていなかったとでも言うように。
「東宮殿下がどうかしたか?」
暁臣様が、私の視線を追って低く囁いた。
「あの方が……東宮殿下、なのですか……」
東宮殿下。次の天皇となるお方。
背丈は暁臣様よりわずかに低いくらいだろうか。けれど、立ち方が静かで、周囲の空気が自然と整っている。
年齢も彼と同じ、二十歳前後に見える。切れ長の涼やかな目元、少し長めに整えられた髪。
浮かべられているのは、柔和で、どこか人を安心させるような穏やかな微笑み。
——なのに、さきほどの視線だけが氷のように冷たい。
従兄弟だと聞いたけれど……暁臣様とは、あまり似ていないような気がした。
似ていない、のに。胸の奥がざわつくのは、私が見られることに過敏になっているせいなのだろうか。
けれど、先ほどの一瞬の視線。
どこかで、同じような視線を感じた記憶がある。
背に冷たい指先が触れたみたいに、ぞくりとした。
それはずっと昔のことではない。
つい、最近——。
そうだ、新年の祝賀会。
あのとき、背中に刺さるように感じた正体不明の視線。
厳かなあの場の中、なぜか私だけが『見られている』と分かった、あの感覚。
それが、今目の前にいるお方のものと同じであることに、私は唐突に気が付いた。
……東宮殿下。あの方が……?
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