第一話 初めて見る白②
「あ、あの……今日は、一体……」
まさか二日連続で、このお邸の和室に足を運ぶことになるとは思わなかった。
昨日は新雪のような純白一色で埋め尽くされていたこの部屋が、今日は打って変わって、目に鮮やかな色とりどりの反物で埋め尽くされている。
一歩踏み込んだだけで、絹の匂いがふわりと鼻先をくすぐり、視界の奥がちかちかした。
けれど、どれも普段目にする着物の模様とはどこか違う。
重厚で、見たこともないほど複雑な織りが施されたものばかりで、光を受けるたびに色が層を成して浮き沈みしていた。
——同じ『布』なのに、ここに並ぶものは、私の知っている布ではない。
「今日は、十二単の生地を選ぶ」
「じゅ、じゅうにひとえ……っ!?」
あまりの言葉に、思わず声が裏返ってしまう。
恥ずかしさより先に、胸がきゅっと縮んだ。
正式な婚儀であれば相応の支度が必要だとは覚悟していたつもりだった。
けれど、まさか十二単まで袖を通すことになろうとは。
幾重にも重ねる布の重み。歩くたびに衣擦れの音がして、息をするのも大変だと聞いたことがある。
そんな装束を、私が——?
馬子にも衣裳どころの騒ぎではない。
私のような『無華』の女が、そんな高貴な装束を身に纏うなんて——。
分不相応という言葉がこれほど似合う状況は、他にないに違いない。
頭ではそう繰り返しているのに、目だけが勝手に吸い寄せられていく。
けれど、目の前に広がる光景は、あまりに美しい。
色が、ただの色ではない。
深い緋は血のように濃く、萌黄は春の芽吹きのように瑞々しく、薄い藤は霞のように柔らかい。
それぞれが主張しているのに、隣り合うと不思議と喧嘩をしない。
むしろ、重なった瞬間に完成する——そんな気配があった。
「お雛様、みたい……」
吐息とともにこぼれた言葉は、自分でも驚くほど幼い響きだった。
それは、遠い幼い頃の記憶——継母が、妹の百合のために買い与えた立派なお雛様の姿。
蔵の隙間から盗み見るようにして眺めていたあのとき、私はただただ、その完成された美しさに目を輝かせた。
けれど同時に、自分とは無縁の世界のものとして、少し距離のある場所から見上げることしかできなかった。
指先を伸ばせば叱られる。
息をする音すら、聞かれてはいけない。
——あの、張りつめた甘い憧れ。
鮮やかな深紅の唐衣に、贅沢に施された金の刺繍。
次々に提案される、季節を重ね合わせたような複雑な色合わせに、意識がくらくらとしてくる。
布の端をそっとめくるだけで、光が滑り、陰が生まれ、模様がもう一度立ち上がる。
その一つ一つが——怖いのに、目が逸らせない。
「そうだな。きっとすみれは、どのお雛様よりも美しくなるだろう」
「……っ、そんな……」
そんな甘い言葉を、臆面もなく口にされるのは暁臣様だけだ。
自分があの完璧なお人形でさえ霞むような姿になるなんて、今の私にはわずかばかりにも想像できない。
言われれば言われるほど、心のどこかで『そんなわけがない』と反射的に身を引いてしまう。
なのに——胸の奥が、ほんの少しだけ、温かくなるのが分かってしまうのが悔しい。
花菱屋の方も、内心では「この娘にそんな大層なものが着こなせるのか」と呆れているのではないか。
そんな不安が頭をよぎる。
視線が向けられた気がして、肩が硬くなる。
見られている。
そう思った瞬間、背中の汗がすっと冷えた。
けれど、不思議なことに、私の隣に佇む暁臣様の姿だけは容易に想像できた。
漆黒を基調とした装束を纏い、凛とした立ち姿で私の隣に立つ彼は、きっと誰よりも気高く、お似合いに違いない。
こうして、一つ一つ婚儀の衣装を選んでいくこと。
本来なら喜ぶべき自分の婚儀のはずなのに、一歩進むごとに、幸福の重さに足がすくんでしまいそうになる。
喜びはある。確かにある。胸の奥で、淡く灯っている。
ただ、その灯りの周りに、影がついて回るのだ。
私が踏み外さないようにと、先回りして。
「花菱屋。春に控えている園遊会のための振袖も、新しく仕立ててもらえるか?」
不意に、暁臣様がそう問いかけた。
昨年、彼に手を引かれて初めて参加させていただいた、あの園遊会。
人々の視線が怖くて、足が震えて、けれど暁臣様の手だけが確かで——。
思い出すだけで、胸の奥がきゅっと鳴る。
「あ、あの……!暁臣様、昨年の振袖ではいけませんでしょうか」
「昨年の?……あちらの柄も似合っていたが、新しいものを用意したいと思っていたんだが」
「帯だけでも変えることができれば、印象も随分と変わるかと思いますが……いかがでしょうか」
花菱屋の主人が、助け舟を出すように穏やかに提案してくれる。
「そうだな。すみれの好きにするといい」
好きに、と言われても。
お妃教育で、着物の文様や帯の柄が持つ意味をどれだけ教わっても、私にはまだ自信がない。
今の自分に何が相応しいのか、何を選べば暁臣様の隣で恥をかかずに済むのか。
やっぱり、自分で選ぶということには戸惑いと恐怖がつきまとう。
選んだ瞬間、それが『私の責任』になる。
——その重みが、まだ怖い。
けれど——今後、私はもっと多くの、もっと重い選択を迫られる日が来るはずだ。
そのとき、暁臣様なら私の出す答えが正しくても、たとえ間違っていたとしても、きっとすべてを受け止めてくださる。
そんな確信だけが、今の私の支えだった。
『大丈夫』と言ってもらえなくても分かる。
暁臣様は、私が倒れそうなときにだけ、必ず手を伸ばしてくれる。
——だから今は、小さな選択から、逃げないでみたい。
「では……どんなお着物にも合わせやすい、落ち着いた帯があれば、それをお願いしたく思います」
「畏まりました。誠心誠意、仕立てさせていただきます」
言い終えてから、心臓が遅れてどくんと鳴った。私、ちゃんと言えた。
眩いばかりの生地に囲まれた和室を後にし、廊下へ出ると、ようやく詰めていた息を吐き出すことができた。
冷たい木の匂いがして、頭が少しだけすっきりする。
——さっきまで、色の海に沈んでいたみたいだ。
「本当に、帯だけで良かったのか?遠慮しているのなら……」
「はい。遠慮、ではありません」
これまで、暁臣様には数え切れないほど素晴らしいお着物を贈っていただいた。
けれど、生まれて初めて、『私のために』と彼が選んで仕立ててくださったあの振袖。
蔵から出たばかりの私を、外の世界へと連れ出してくれたあの一着は、私にとって何にも代えがたい、特別に思えてならない。
あの袖が揺れるたび、私は『ここにいていい』と教えられている気がした。
もし、このまま暁臣様と無事に夫婦になれたら。
それはこの上ない幸せだけれど、もう二度と、あの振袖を着ることはできなくなってしまう。
大人の女性の証として袖を切ってしまう前に、もう一度だけ。
彼が初めて贈ってくれたあの長い袖を揺らして、彼の隣を歩きたい。
——私が私のままで、彼の隣へ行けた証を、もう一度確かめたい。
「そうか。すみれがあの着物を気に入ってくれているなら、それが一番だ」
納得したように頷くと、暁臣様の大きな掌が、ぽん、と私の頭に乗せられた。
優しく、慈しむような重み。髪越しでも伝わる温かさに、喉の奥がつんとする。
触れられているのに怖くない。——それが、今もまだ不思議だ。
前回の園遊会から、一年。
私は少しでも、この温かな掌に相応しい女性になれているのだろうか。
相応しい、という言葉が嫌いなのに、どうしてもそれを考えてしまう。
だって暁臣様の隣は、いつだって眩しいから。
どうか、この掌を離さないで。
この温もりを、私に。私の願いは、ただそれだけなんです。
そんな、言葉にするにはあまりに切実すぎる願いを胸の奥に秘めて、私は差し伸べられた彼の手を、そっと握り返した。
指先が触れ合った瞬間、心臓の音が少しだけ落ち着いた。
——ここが、私の帰る場所だと信じたくて。
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