第一話 初めて見る白①
暁臣様のお邸の中でも、数少ない和室に足を踏み入れる。
畳の青い匂いと、きゅっと張った空気。
いつ来ても背筋が勝手に伸びてしまう。
ここは——お着物の仕立てをお願いするときにだけ、開かれるお部屋。
いつもなら、部屋いっぱいに反物が並ぶ。
季節をそのまま写し取ったような色が折り重なって、目が追いつかないほど鮮やかで。
袖をすべらせるたび、絹が小さく鳴る音まで、どこか浮き立つ。
けれど、この日だけは違った。
窓から差し込む柔らかな陽光を受けて、白、白、白——。
あまりに眩い純白の連なりに、一瞬、視界が白く塗り潰されたような錯覚に陥る。
息を吸ったのに、胸が追いつかない。
「……暁臣様……これは……?」
「すみれが婚儀で着る、白無垢の反物だ」
声が掠れた。喉が、やけに乾く。
『婚儀』という言葉が耳に触れた瞬間、心臓が跳ねた。
熱が頬へ、首筋へ、一気に駆け上がる。
『俺たちの、婚儀の日取りが決まった』
秋に婚儀を執り行うと伺ったのは、新年の祝賀会が終わったつい先日のことだった。
まだ半年以上も先の出来事のはず。なのに、もう——こんなにも早く、現実が形を持って押し寄せてくる。
この世界では、人は生まれながらに『華の加護』と『異能』を宿して産声を上げる。
牡丹や菊は勇猛な武家に多く、桜や藤は芸や学問に秀でた者に好んで現れる。
中でも薔薇の『華』は希少で、黒を帯びたそれは皇族の血を引く者にしか現れない、至高の証。
目の前で静かに佇む五条家嫡男、暁臣様。
この国の頂点に近い『王華』——『黒薔薇』という唯一無二の『異能』を宿す人。
その強すぎる力ゆえ、かつては誰とも触れ合うことすら叶わなかった。
そして、私は。
誰しもが持つはずの華を持たずに生まれた、『無華』。
その証として、左右で色が違う焦げ茶と紫の瞳を持っている。
亡き生母は死の間際まで私のこの瞳を『不吉だ』と恐れた。
のちにやってきた継母と妹は、私を透明な存在として扱い、当たり前のように虐げ続けた。
あの日まで、蔵の中でひっそりと、泥に埋もれるように消えていくのだと信じて疑わなかった。
——私の人生は、そこまでだと。
それなのに。
暁臣様の温かさに触れ、その隣に立つことを許された。
婚約が決まったというだけでも、まだ頬をつねりたくなるような夢心地の中にいるというのに。
具体的な日取りが決まったことで、いよいよ『結婚』という現実が、重みを持って私へ落ちてくる。
幸せなはずなのに、私を置き去りにしてすべてが決まっていく感覚に、言いようのない畏怖が混じる。
この白に、私は染まってもよいのだろうか。
指先が、袖の中で小さく強張った。
「花菱屋でございます。この度はご婚儀の決定、誠におめでとうございます。一生に一度のめでたき日のご衣裳をお任せいただけますこと、職人一同、心より光栄に存じます」
暁臣様が御贔屓にされている呉服店の主人が、恭しく頭を下げる。
その言葉が部屋に落ちて、白の中へ吸い込まれていくみたいだった。
これまでも暁臣様は、私に分不相応なほど美しい衣を何度も用意してくださった。
けれど、この白無垢の反物は——それらとは『格』が違う。
視線だけで、もう息が詰まる。
ただの純白ではない。
顔を近づければ、極細の糸で紡がれた鶴の羽ばたきや、咲き誇る花々の刺繍が、生地の凹凸となって浮かび上がっている。
光の角度で、白の中に白が揺れる。静かなのに、圧倒される。
美しいという言葉では足りない。
そこには、職人の執念に近いほどの研鑽と、祈りにも似た真摯な想いが込められているのが分かる。
——この白は、祝福そのものだ。
『無華』で、何の色も持たない私なんかが。
こんなにも神聖な『白』に触れることが許されるのだろうか。
汚してしまわないか、指を伸ばすことすら躊躇われて、呼吸だけが浅くなる。
「どれもすみれに似合う……たった一日しか着せられないのが、惜しいほどだ」
暁臣様の声は低く、淡々としているのに。
その一言だけで、胸の奥がじんと熱くなった。
「……私、」と言いかけて、言葉がほどけた。
見上げると、暁臣様の視線がまっすぐこちらに落ちている。
逃げ場がないのに、怖くない。
…たった一日?
その一日のために、こんな美しい反物を使って、私なんかが着る白無垢を作るだなんて。
胸の奥がふわりと浮いて、同時に、底へ沈む。
喜びと怖さが、同じ所で絡まるみたいに。
「殿下の仰る通りです。すみれ様の透き通るような佇まいであれば、白無垢のほうが霞んでしまうのではないかと案じておりますよ」
花菱屋の主人の言葉に、私は慌てて首を振った。
否定の動きが大きくなりすぎて、髪が肩に触れてはらりと落ちる。
そんなはずはない。
きっと、馬子にも衣裳。白の輝きに、私の存在が飲み込まれてしまうだけだ。
——私が白をまとうのではなく、白に呑まれる。
そんな気がする。
それでも。
心の奥底では、暁臣様との婚儀が楽しみで、胸が震えるほど嬉しく思っている自分もいる。
恐怖よりも、彼の一部になれる喜びが、ほんの少しだけ上回ってしまうのだ。
ほんの半年前の私なら、ただ恐縮して縮こまっていたはずなのに。
暁臣様のそばにいるだけで、私は少しずつ、自分の心に素直になることを覚え始めていた。
……嬉しいと、言ってもいいのだと。期待しても、罰は当たらないのだと。
「す、すみません……どれも本当に美しすぎて……。私には、とても選べそうにありません……」
言い終えた途端、息が抜けた。
みっともないほど弱い声だった気がして、唇を噛む。
困り果てて絞り出すと、花菱屋の方が少しだけ困ったような微笑みを浮かべた。
「恐れ入ります。ですが、すみれ様。婚儀の白無垢は、お身体に合わせて誂える最高の一着でなければなりませんゆえ……」
分かっている。分かっているのに。
どの白を見ても、それが自分を否定しているような、あるいは試しているような気がして、伸ばしかけた指先が止まってしまう。
選ぶということは、白に触れるということ。
触れるということは、私がここにいていいと認めること。
——そんな資格が、本当に私にあるのだろうか。
「……すみれ」
暁臣様が、私の名を呼ぶ。
甘やかすでも、急かすでもない。
深い森の奥で響く水音のような、どこまでも穏やかで、私を肯定してくれる声。
その音に引かれるように、固まっていた肩の力が少しだけほどける。
「迷うなら、俺が選んでも構わないか?」
「え……はい、ぜひ、お願いしてもよろしいでしょうか」
すがるような思いで顔を上げると、暁臣様は反物の列に視線を向けた。
それは、私を想う熱を帯びた、不思議な視線だった。
視線が動くたびに、白がわずかに表情を変える。光が、息をするみたいに揺れる。
「花菱屋。すみれの肌に最も映える白は、どれだ」
「はい。僭越ながら——わたくしの見立てでは、こちらでございます」
主人が恭しく差し出したのは、先ほどまでの雪のような白とはわずかに異なる、柔らかな色味の反物。
青みのない、温かな真珠の光を内側に閉じ込めたような。
闇夜を優しく照らす月の光をそのまま布にしたような、静かな白だった。
目が離せない。怖いのに、見てしまう。
「……これが、私に……?」
「そうだな。きっと似合う」
喉の奥がきゅっと縮む。
自分の名前を呼ばれたみたいに、その白がこちらを見返してくる気がした。
暁臣様は短く応じ、手袋越しにそっと反物へ指を這わせた。
厚みのある絹の生地は、ひやりとしていながら、暁臣様の視線があるせいか不思議と冷たくは感じなかった。
むしろ、そこだけ温度がある。
手袋越しでも伝わるほど、丁寧に扱ってくださっているのが分かる。
「白は、強い色だ。他の何にも染まらず、すべてを撥ね除ける。この白は、お前を消すためのものじゃない。——すみれ、お前を守るための白を選べ」
守る。
その言葉が、すとんと胸の空洞に落ちた。
そうだ。暁臣様はいつだって、私が私であることを守ろうとしてくださる。
誰かに塗り潰されないように。消えないように。
「暁臣様……」
「俺が見たいのは、衣裳の出来栄えではない……これを纏って俺の前に立つ、花嫁のすみれだ」
声が震えたのは、怖さじゃない。胸の奥が熱くて、言葉が追いつかない。
不意に、暁臣様の瞳に宿る熱が色濃くなった気がして、心臓の音が耳元まで届くほどに高鳴った。
視線を逸らしたいのに、逸らせない。逃げる場所がないのに、嫌じゃない。
花菱屋の主人が、二人の空気に当てられたのか、ほんの少しだけ目を細めて微笑む。
「承知いたしました。では、こちらの白を基調に。鶴の刺繍はあえて控えめに——けれど、お隣へ近づいた者にだけその精緻さが伝わるよう、気品をもって仕立てさせていただきます」
その言葉を背中で聞きながら、私はもう、反物から目を離すことができない。
白が怖い。けれど、暁臣様の言葉が、私の中の怖さを一枚ずつ剥がしていく。
あんなに怖かったはずの白。
けれど、暁臣様が『これだ』と指し示してくれた瞬間、その白は、私を温かく包み込んでくれる盾のように見えた。
盾の向こうに、私は——ようやく、立ってもいい場所を見つけた気がした。
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