第二十四話 初めての夜②
「……すみれ?」
湯浴みを終え、寝室へ戻った俺は、思わず声を落とした。
ベッドの上には、一人の少女が、穏やかな寝息を立てて横たわっている。
つい数時間前まで、豪華絢爛な衣裳に身を包み、誰よりも遠く、誰よりも神聖な場所に立っていたはずの存在。
それが今は、信じられないほど無防備で、静かな呼吸を刻みながら、俺の寝台に身を預けている。
幻だったのではないか——。
そんな錯覚すら覚えるほど、彼女はあまりに素のままで、純粋だった。
すべてを俺に委ね、疑うこともなく眠るその横顔を見た瞬間。
胸の奥に渦巻いていた緊張も、新婚の夜としての覚悟も、形を失い、ただ一つの感情に塗り替えられていく。
——愛しい。
「……無理もないな。今日は、酷く疲れただろう」
独り言のようにそう呟き、そっと彼女の肩口まで布団を掛け直す。
指先が触れぬよう、細心の注意を払いながら。
言葉を交わさずとも。
肌を重ねずとも。
今、この腕の中に彼女がいる。
ただその事実だけで、長いあいだ荒んでいた俺の魂が、これ以上ないほど満たされていくのを感じた。
かつて、一生涯を孤独の中で終えるのだと覚悟した日がある。
『黒薔薇』という強過ぎる『異能』を宿す俺に、誰かと寄り添う未来などあるはずがないと。
触れ合える『双蕊』など、現れるはずがないと——半ば、諦めていた。
そんな絶望の淵にいた俺の前へ、あの雪の日、突然現れたのが、この儚い少女だった。
一目見た瞬間。
冬の陽光を受けて揺れた、あの虹彩色の瞳に、心を奪われた。
たとえ、この力が彼女を傷つける運命にあろうとも。
永遠に触れ合うことが叶わぬとしても。
それでもほしいと、初めて渇望した存在だった。
昼間、祝宴の隅で感じた東宮の気配が脳裏を掠める。
あの歪んだ執着心は、一歩間違えれば、俺自身の姿だったかもしれない。
俺がほんの僅かに早く彼女を見つけ、手を伸ばした——それだけの、紙一重の差だ。
腕の中へ閉じ込めるように、細く華奢なすみれの身体をそっと抱き寄せる。
すると彼女は、夢うつつのまま温もりを求め、子猫のように身じろぎしながら、俺の胸もとへとすり寄ってきた。
規則正しい寝息。
その微かな吐息でさえ、狂おしいほどに愛らしい。
理性が揺さぶられ、胸の奥がざわつく。
……どれほど疲れていようと。
俺が求めれば、彼女は拒まず受け入れるだろう。
だが——今は、まだそのときではない。
彼女を怖がらせたくはない。
何より、ほんの僅かな綻びからでも、彼女に嫌われることだけは耐え難い。
「……おやすみ、俺のすみれ」
自らに言い聞かせるように呟き、彼女の額へ一度だけ、静かな口づけを落とす。
逸る鼓動を抑え、彼女の体温に守られるように、そして守るようにして。
ゆっくりと穏やかな眠りの底へと身を沈めていった。
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