第二十五話 無華の花嫁
微かな吐息が耳元で触れ、自分の身体が規則正しく上下する、不思議な浮遊感に包まれて、私はふと意識を取り戻した。
重厚なカーテンの隙間から、細く伸びる朝陽が一筋こぼれ落ち、まだ夢の続きを見ているような部屋の輪郭を、ゆっくりと浮かび上がらせていく。
頬に触れるのは、いつも独りで眠る布団の冷たさではない。
生き物の確かな存在を主張する、力強い拍動を伴った熱だった。
気がつくと私は、暁臣様の身体に、まるで甘える子どものように重なって眠っていた。
——私……いつの間に、こんなに深く眠ってしまったの……。
昨夜、お風呂から上がり、暁臣様の寝室で待つように言われたことは覚えている。
ベッドの端で、背筋を伸ばし、緊張しながら座っていた所までは、確かに記憶にあった。
けれど、そこから先の時間は、幸福な疲労感の中に溶けて、綺麗に消えてしまっている。
思考をぐるぐると巡らせていると、それまで一定だった暁臣様の呼吸が、ふっと揺れるように大きく動いた。
「……おはよう、すみれ。朝からそんなに可愛い顔をされると、少し困るな」
「あ、暁臣様……っ!い、いつから起きていらしたのですか……」
妻として、正式に婚儀を挙げたその初夜。
こともあろうに、旦那様を待たず、独り先に夢路を辿ってしまった。
その事実に思い至り、顔が火の出るように熱くなる。
「あの……申し訳ありません……。重いですよね、私。すぐ、すぐに降りますから……っ」
「いや。このままでいい……もう少し、こうさせてくれ」
慌てて身体を起こそうとする私を、暁臣様の太い腕が優しく、けれど抗いようのない力で引き戻す。
再び彼の胸へと頭を預ける形になり、耳元で響く鼓動が、トクン、トクンと、心地よい音を刻み始めた。
……けれど、その音は。
次第に、少しずつ、強く、激しく打ち鳴らされていく。
「……あの……暁臣様……?どこか、お加減でも……」
心配になり、顔だけを上げて至近距離から覗き込む。
「すまない……。今は、あまりそんな無垢な瞳で俺を見ないでくれるか」
掠れた、どこか苦しげな声。
弾かれたように顔を伏せると、視界の端で、暁臣様が手の甲で口元を覆い、耳の付け根まで赤らめているのが見えた。
——あの、いつも冷静沈着な暁臣様が……。
こんな隙のある表情を目にするのは初めてで、釣られるように私の胸も早鐘を打ち始める。
やがて、暁臣様の胸が大きく上下し、熱い吐息が私の額にかかった瞬間——
世界が、不意に反転した。
「……っ……え……」
気がつけば私はベッドへ押し倒されるように仰向けになり、上から暁臣様の深い眼差しに射抜かれていた。
「……一生、大切に守り抜くと誓った。だが……今からの俺は、すみれを傷つけ、泣かせてしまうかもしれない」
目の前にいるのは、この世界の誰でもない。
ただ、私だけを情熱的に見つめる、暁臣様。
恥ずかしさに耐えきれず目を逸らそうとしても、縫い留められたように叶わない。
「……暁臣様になら……私は……何をされても、後悔なんて、いたしません」
震える声で告げた、その瞬間。
視界のすべてが暁臣様に覆われ、これまで交わしたどの口づけよりも深く、焦がれるようなキスが降ってきた。
それは、ただ優しいだけのものではなかった。
私の魂の奥底まで暴き、求め尽くそうとする、切実な口づけ。
唇の隙間から零れる自分の吐息に、身体の力が抜け、溶けてしまいそうになる。
私は必死に耐えるように、暁臣様の広い背中へ震える手を回し、しがみついた。
「……っ……は……はぁ……」
ようやく唇が離れ、酸素を求めて肩が大きく上下する。
熱に浮かされた視界が涙で滲み、世界がゆらゆらと揺れた。
「……真っ赤だな、すみれ。熟れた果実のようだ」
低く愉しげな声。
暁臣様の長い指先が、私の耳たぶに触れ、首筋をなぞり、鎖骨のくぼみを滑るように下りていく。
きっと今の私は、顔だけでなく、全身が深紅に染まっているに違いない。
「……はち、かいめ……です……」
「八……?」
「あの……今のが、暁臣様と交わした、八回目の……キスで……」
「ふっ……。もう数えなくていい。これから先、数え切れないほどすることになるのだから」
逃げ場のない宣言に、言葉を失う。
抗う間もなく、再び唇を塞がれた。
髪を優しく梳く手。
頬を包み込む手。
そして降り注ぐ愛撫のすべてに、私の身体は驚くほど過敏に反応し、芯から熱く、甘く蕩けていく。
——あの日、決めたのだ。
この命も、この身体も。
そして、誰にも触れさせなかった心も。
他の誰でもない。
自分自身のためですらなく、ただ——暁臣様に捧げよう、と。
その誓いを胸に、暁臣様の熱を帯びた素肌へ手を伸ばす。
暁臣様の肩越しに射し込む朝の柔らかな光が、少しずつ部屋の隅々を黄金色に染めていく。
もう、何も考えることはできない。
激しく脈打つ鼓動と、身体の奥に走る、わずかな痛みを伴った感覚を——
私は、至福の証として受け入れる。
固く繋ぎ合わされた指先には、昨日授かったばかりの指輪が、永遠の象徴として眩く輝いていた。
暁臣様の言葉通り、もはや数を数える意味など失われていく。
降り注ぐ唇は、祝福の花弁のように、私の全身を包み込む。
どうか——
暁臣様と共に歩む、この長く険しく、けれど尊い人生が。
この左右で違う『無華』の証である瞳に映る未来が、ただただ美しく、愛に満ちたものでありますように。
この日。
どこにも居場所がなく、何者でもなかった、何も持たないはずの私は。
——世界で一番、幸せな花嫁になった。
最後までお付き合いありがとうございました。
書籍化のお話が来た時点で、実はここまで書き上げていました。
発売に合わせて、全て公開できることができて良かったです。
またどこかで、すみれと暁臣のお話が書けるように…書籍が発売中ですので、お手に取ってもらえると嬉しいです。
ブックマーク、★★★★★、よろしくお願いします( *・ㅅ・)*_ _))ペコ





