第二十三話 永遠の誓いの証
初めて足を通した、踵の高いハイヒールの靴。
「わ……っ、あ……」
おそるおそる立ち上がると、見慣れたはずの自分の部屋なのに、視界がいつもより数センチだけ高く、別世界のように感じられた。
床が遠い。身体がふらつく。
重心が定まらず、一歩を踏み出すことさえ躊躇われる。
信子さんにそっと手を引かれ、やっとのことで右足を踏み出しても、慣れない高さに膝ががくがくと震えてぐらついてしまう。
転べない。裾を汚せない。そう思うほど、余計に足が固まる。
ドレスの裾を汚さぬよう細心の注意を払いながら、一歩一歩、感触を確かめるようにして、暁臣様が待つホールへと向かった。
階段の踊り場を曲がった先。
階下で私を待っていた暁臣様の姿を目にした瞬間、再び呼吸を忘れてしまう。
いつも仕事で着ていらっしゃる落ち着いたスーツとも、軍服のような制服ともまるで違う。
月の光を反射して淡く発光するような白い、丈の長いお洋服。
その気高く、凛とした佇まいは、小説の挿絵に描かれていた異国の王子様そのものだった。
——こんな方が、私の夫だなんて。
言葉にした途端、現実が溶けてしまいそうで、胸が熱くなる。
階段を最後の一段まで降りる。
信子さんの介添えの手が離れた。
代わりに、温かく大きな暁臣様の手が、迷うことなく私へ伸ばされる。
「すみれ」
「……はい……」
「今日は何度でも、すみれを美しいと思ってしまうな。何度褒めても、言葉が追いつかない」
蕩けるような甘い声で囁くと、暁臣様は上着のポケットから小さな箱を取り出した。
そして、私の震える左手を取り、その薬指へ静かに、祈るような仕草で光る円環を滑り込ませる。
黄金色に光る繊細な台座。
大粒の宝石が、きらきらと純粋な光を反射して、私の指先で誇らしげに輝いている。
重みは小さいのに、胸の奥がずしんとする。
「これは……指輪、ですか?」
「ああ。改めて、俺の妻になってくれたすみれへ。永遠の誓いの証だ」
妻……。
本当に……私が、この方の。
そんな夢のような人生が自分に訪れるなんて、あの日まで欠片も思っていなかった。
あの仄暗い蔵の中で、誰にも知られず、埃にまみれて人生を終えるのだとばかり信じて疑わなかったのに。
「これから、写真を撮ろうか」
「写真、ですか?」
「ああ。写真館の人間を、邸へ呼んである」
そう提案されても、最初は何のことか想像すら及ばなかった。
写真——。
それは、裕福な家の方々が『誰かの特別な記念』に添える、限られた者だけの特権。
私のような存在には、一生涯縁のない贅沢品だと、ずっと思い込んでいたから。
暁臣様に導かれ、ホールの奥にある広間へ歩を進める。
夜の静まり返った邸には、二人の足音だけが規則正しく響き渡った。
けれど——重厚な扉の向こう側から、微かな人の気配と物音が漏れ聞こえてくる。
コツ、コツ。
硬い革靴が床を踏みしめる音。
カチリ。
精密な機械の金具が噛み合う金属音。
さらり。
大きな布が空気を孕んで払われる音。
恐る恐る視線を向けると、見慣れぬ黒い正装の男性たちが数人控えていた。
彼らは巨大な黒い箱を抱え、重厚な木製の三脚のようなものを担いでいる。
年配の男性が一歩前に出ると、深々と丁寧に頭を下げた。
「本日は誠におめでとうございます、殿下、妃殿下。このような慶事に拝謁し、撮影させていただけますこと、光栄の至りに存じます」
『妃殿下』——その呼び名だけで、胸の奥がきゅっと鳴った。
喉の奥まで熱が上がり、頷くだけで精一杯になる。
——本当に、私のために呼んでくださっていたんだ。
広間の一角には、いつの間にか背景となる上品な模様の布が美しく張られている。
見たこともない大きなレンズのついた機械。様々な道具。
そして、強烈な光を放つための灯りが次々と点灯される。
準備の手際が良すぎて、夢の中みたいだ。
ぱち、ぱち、と炭が爆ぜるような小さな火が灯る音がした。
淡く青白い光が広間に広がり、私の纏うドレスの白が闇の中にいっそう柔らかく、真珠のような光沢を帯びて浮かび上がる。
白が、白のまま息をする。
「こちらへ。ヴェールの形を今一度、整えさせていただきますね」
信子さんがそっと背後に寄り添い、優しく私の背へ手を伸ばす。
頭上の透明な布が、肩から背へまっすぐ美しい放物線を描いて落ちるよう、慈しむように丁寧に撫で整えられた。
背中を通り抜ける信子さんの指先が、少しくすぐったい。
こんなに美しい衣を纏い、高貴な指輪を授かり。
そして今、この一瞬の私の姿が紙の上に永久に焼きつけられて残されるのだ。
もし、これがすべて残酷な夢だったら。
目が覚めたら、また冷たい蔵の床に寝転んでいたら——。
幸せであればあるほど、臆病な考えが頭を掠めてしまう。
「妃殿下、そのまま少しだけ顎を上げてください」
「……は、はひっ」
呼ばれ慣れない言葉に、声が裏返ってしまった。
「くくくっ……緊張しなくても大丈夫だ」
「……はい……」
恥ずかしくて頬が熱いのに、ヴェールのせいで表情を隠せるのが、なぜだか救いだった。
指示に従って顔を上げると、ヴェール越しの空気がふわりと揺れた。
『妃殿下』と呼ばれ、自分が誰の隣に立っているのかを突きつけられるたびに、心臓が激しく跳ねる。
「殿下、もう一歩だけ妃殿下に寄ってください。肩を触れ合わせるように」
「ああ。これくらいだろうか」
暁臣様がさらに一歩、私の内側へ踏み込んでくる。
微かに触れるほどの気配だけで、胸が焼け付くように熱くなる。
衣装のせいで肩が触れそうで触れない、もどかしい距離。
けれど下ろした指先だけは、彼の手によって確かに力強く重ねられていた。
私の震えを、上から押さえるように。
写真師の方が、大きなカメラの後ろで黒い布を頭からすっぽりとかぶる。
カチ、カチ、とレンズの焦点を調整する金属音。
その音が、やけに心臓の鼓動に似て聞こえた。
「では——お二人とも、こちらを真っすぐご覧ください」
合図に合わせて、ぎこちなく足を動かし向きを整える。
慣れないハイヒールの不安定さが怖くて、ドレスの裾を踏まないか気がかりで、呼吸が浅くなっていく。
「奥様、目線は少しだけ前へ。顎を引きすぎず、はい、そのまま……では、撮ります!」
不安に押し潰されそうになったその瞬間、暁臣様がわずかに、私の指先を握り直してくれた。
掌から伝わる力強さだけで、詰まっていた呼吸がふっと戻る。
——ぱんっ!!
乾いた爆発音が邸内に響き渡り、私は思わず肩を跳ねさせた。
目の前が一瞬だけ真っ白な閃光に包まれ、白い煙が幻想的に立ち上る。
世界が焼き切れたみたいに眩しい。
「もう一枚、まいります。次は……奥様、少しだけ笑ってみてください」
笑うなんて……。
目の前で起きている刺激的な出来事に圧倒され、そんな余裕はどこにもない。
唇が強張ったまま動かない。
暁臣様が、隣から私を優しく見下ろした。
その瞳は、いつになく甘く、とろけるほどに柔らかい。
「すみれ。笑えそうか?」
「……すみません。どうしても、緊張してしまって……」
「気にするな。ただ、俺はすみれに笑っていてほしいだけだ」
その言葉で、さっきまで遠く感じていた『結婚した』という実感が、波のように胸の中へ押し寄せた。
暁臣様を想うと、胸が締め付けられるほど切なくなる。
けれど同時に、この上なく誇らしく、嬉しくなる。
傍にいたい。離れたくない。
抱き締められたら、もっとその先の温もりがほしいと願ってしまう。
——その激しさを、受け止めてもらえる。
互いを『好きだ』と想い合える、この奇跡。
幸せ。ああ、きっと、これが幸せというものなんだ。
喜びに魂が震え、自然と口角が綻ぶ。
まさにその瞬間——
——ぱんっ!!
また一度、眩い祝福の光が私たちの姿を永遠の中に閉じ込めた。
そして私は、煙の向こうで、暁臣様の笑みを確かに見た気がした。
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