第二十二話 帰るんだ、あのお邸へ②
静まり返ったお邸に戻り、ふと夜空を見上げた。
頬を撫でる空気は昼間よりずっと肌寒さを増している。けれどその分、空は冴え渡り、中天に輝く月と満天の星々が、私たちの帰還を祝福するように瞬いていた。
長い一日だった。
あまりに濃密で、まるで美しい夢の断片を繋ぎ合わせているような心地がする。
極度の疲労からか、足元がどこかふわふわと浮き上がるようで、思わず暁臣様の腕を強く掴んだ。
暁臣様は黙って私の肩を抱き寄せ、その体温で支えてくれる。
触れているだけで、地面に戻ってこられる。
「殿下、すみれ様。本日の善き日に立ち会わせていただき、心より感謝申し上げます。誠にありがとうございました」
玄関の前で、藤波様、篠塚様、そして信子さんの三人が揃って深く、深く頭を下げられた。
「そんなっ……!私の方こそ、皆さんに頼り切りで、ご迷惑ばかりおかけしてしまって……」
「皆、大儀だった。これほどまでの滞りない進行、実に見事だった。後日、改めて相応の礼をさせてくれ」
藤波様と篠塚様が静かに車へ乗り込まれると、暁臣様が残った信子さんに声をかけた。
「信子殿……もう少しいいか?すみれの最後の手伝いをお願いしたい」
最後の手伝い——?
首を傾げる間もなく、私はぐっと肩を引かれるようにしてお邸の中へ導かれる。
何も説明されないまま、柔らかな光が灯る廊下を奥へ奥へと進む。
ちらりと暁臣様の横顔を盗み見ても、前を見据えたまま、何一つ言葉を発しない。
信子さんもまた、すべてを察しているのか静かに後ろをついてくる。
心地よい沈黙だけが廊下に満ち、やがて私の部屋の前へ辿り着いた。
「あ、あの……暁臣様?」
「……開けてみるといい。お前のための贈り物だ」
贈り物……?
促されるまま、震える指先を扉にかける。
ガチャリ、と小さく音が立ち、扉が開いた。
室内には、僅かな間接照明に照らされて、部屋の中央に見たこともないほど純白のドレスが飾られていた。
繊細な刺繍の上に散りばめられた宝石が淡い光を反射し、まるで星屑を縫い留めたかのように眩く輝いている。
白いのに、冷たくない。光を抱いているみたいだ。
「俺のために、これを着てほしい」
「……私の、ドレス……なんですか?」
「もちろんだ。世界でただ一人、すみれのためだけに用意させた」
——やっぱり、私はずっと夢を見ているのではないだろうか。
ふらりとした足取りで、ドレスの傍らへ歩み寄る。
白無垢の伝統的な白とも違う、どこか真珠のような深みのある白。
こんなにも美しい衣がこの世に存在していたなんて。
蔵にいた頃の私が見れば、天女の衣だと思い込んでしまったに違いない。
「お召し変え、私の方でお手伝いしますね。すみれ様」
「……信子さん……」
暁臣様が一旦部屋を離れ、信子さんと二人きりになる。
帯を解き、着物を脱いでいく。
肌に触れる空気が冷たくて、現実が戻ってくるのが少し怖い。
これまで、洋服は暁臣様に贈られたものを数回袖に通した程度だった。
信子さんが持ってきてくださった、あの小説の一節を思い出す。
異国の地では、このような白いドレスを纏って永遠の愛を誓うお話があった。
まさか、あの物語の主人公が纏っていたようなドレスを、私自身が身に纏う日が来るなんて。
帯とは少し違う、背中をきゅっと引き締められる感触に、背筋が自然と伸びる。
息が浅くなり、胸の鼓動が速くなる。
——逃げたいのではない。嬉しさに、追いつけないだけ。
「仕上げに、ヴェールも着けましょうね」
「……ヴェール?」
目の前で膝をつくように座る信子さんの手によって、ふわりと半透明の繊細な生地が頭上に掲げられた。
視界が白く霞み、透けた生地越しに見る世界が、いつもよりずっと優しく、神秘的に映る。
息を呑む。
まるで、自分が自分ではない誰かになったみたいで。
「……すみれ様。本当に……本当にお綺麗で……」
「信子さん……」
「……申し訳ありません。本当でしたら、このようなお役目は朝霞様のご身内の方がなされるべきなのに……私ごときが……」
信子さんは堪えきれなくなったように、袖で何度も目元を拭われた。
父や母のことも、私を虐げた継母や百合のことも——きっと忘れることはできないだろう。
思い出すたび胸の奥底に溜まった黒く濁った澱が騒ぎ、消えることのない傷が、鈍く疼く。
「……恐れ多いこととは存じますが……私は、ずっとすみれ様のことを、本当の妹のように思っておりました」
「そんな、謝らないでくださいっ!私の方こそ……ずっと、信子さんのことを、実の姉のように……」
信子さんには、故郷に私と同じ年頃の妹さんがいるとおっしゃっていた。
それでも——幼い頃から朝霞家の中で唯一、私に一欠片の情を注ぎ、助けてくれたのは信子さんだった。
『いつか……お嬢様を心から大切にしてくれる方が、きっと現れます……!』
あのとき、信子さんがかけてくれた言葉。
呪いのようだと思ったこともあった。
叶わない希望を抱かされるほど、日々が残酷になるから。
けれど今なら分かる。あの言葉は、信子さんの祈りだったのだと。
その祈りが、私を暁臣様に出会う日まで繋いでくれた。
ずっと堪えていた涙が、ぽろり、ぽろりと溢れ出してきた。
せっかく化粧を直してもらったのに。
この高価なドレスを汚してはいけない。
止めなければと思えば思うほど、感情は堰を切ったように溢れ、止まらなくなる。
喉の奥が詰まり、言葉が震えて途切れる。
「ふふ。すみれ様、そんなに泣いてしまっては、外でお待ちの殿下が心配されてしまいます」
「ごめ……ごめんなさい、信子さん。涙が、止まらなくて……」
今もなお、あの蔵での孤独な日々は、私の中に深い傷跡として刻まれている。
けれど、もう大丈夫。——たぶん。
傷はいずれ瘡蓋となり、やがて自然に剥がれ落ちる。
ときにはまた同じ場所から血が滲む夜もあるかもしれない。
それでも何度でも瘡蓋を作って、慈しみの手で覆っていけば、いつかきっと跡形もなく綺麗になる日が来る。
そう信じたい。信じてみたい。
「信子さんがそばにいてくれたこと……本当に、嬉しいです。ありがとうございます」
私はヴェール越しに、世界で一番優しい義理の姉へ、心からの微笑みを向けた。
信子さんの指先が、そっと私の頬の涙を拭ってくれる。
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