第二十二話 帰るんだ、あのお邸へ①
ゆっくりと顔を上げる。
木漏れ日となって差し込む秋の光が、私の紅い衣を眩しく照らしていた。
光の粒が、布の上で小さく跳ねるみたいに揺れる。
まだ、五条家の宮妃になったという実感はない。現実味も遠い。
それでも、あの透き通った祈りの音だけは、今も耳の奥で静かに鳴り続けていた。
しゃん……という余韻が、心臓の鼓動に重なる。
厳かな神前儀式が終わり、私は再び迷路のような廊下を通り、控えの間へと導かれた。
幾重にも重ねられた十二単を一枚、また一枚と解かれていく。
身体がふわりと、羽が生えたように軽くなる——はずだった。
けれど実際には、緊張の反動で全身の力が抜けすぎてしまい、畳の上に立っているのがやっとという有様だった。
ついさきほど誓いを立て、夫婦になったはずなのに、どこか遠い国の出来事のように現実味が薄い。
指先を見ても、何も変わっていないのに。
「お疲れでしょう。白湯を飲んでください」
「はい……ありがとうございます」
「次のお支度まで、少しだけ目を閉じて休んでくださいね」
信子さんの声に甘え、私は言われるままに座り込み、大きく肩で息をした。
瞼を閉じると、廊下の気配まで遠のく。
ほんの少し、暁臣様と離されてしまっただけで、肌寒いような心細さが胸をかすめた。
馬鹿みたいだ。……でも、戻りたい。
今度は、白無垢。
清廉な真っ白な布に包み込まれると、先ほどまでの重力が嘘のように感じられた。
けれど衣装は軽いはずなのに、私の身体の芯には、見えない重石がずっと置かれたままのように重たい。
軽さに慣れないせいで、逆に足元が頼りない。
祝宴の会場へと向かう途中。
近づくにつれ、人の気配が濃くなり、華やいだ声や音が鼓膜を叩く。
盛大な拍手。
上等な絹が擦れる音。
乾杯を告げる、杯が触れ合う澄んだ音。
私はただ、隣を歩く暁臣様の頼もしい歩幅から遅れぬよう、必死についていくだけで精一杯になる。
視界の端々には、想像を絶するほど多くの方々の姿。
そして、そのすべての視線が一斉に私へ注がれているという事実。
『無華』の証である、この左右で違う瞳を見られてしまう……。
ただ人が多いだけの場所ではない。
ここにいる全員が、朝霞家が隠し続けてきた『出来損ない』の瞳を見ようとしている。
その恐怖に、思わず目を閉じ、顔を伏せたい衝動に駆られた。
喉の奥がきゅっと縮む。
「すみれ」
不意に、耳元に低く優しい暁臣様の声が降ってきた。
背の高い彼を見つめるために、私は自然と顔を上げる。
そうすることで、俯かずに前を向けた。
目を逸らさずに済む。——あの方が、そうさせてくれる。
「白無垢を纏った今のすみれを、俺が独り占めできないのが、どうしようもなく残念だ」
「……っ、暁臣様……」
「今すぐにでも、このままお連れ帰って、誰の目にも触れぬよう閉じ込めてしまいたくなるな」
独占欲の滲むその冗談に、強張っていた私の心は、不思議と少しだけ軽くなった。
笑ってはいけない場面だと分かっているのに、口元がほんの僅かに緩む。
暁臣様がいる。だから、歩ける。
——そのとき。
一瞬だけ。
背筋が凍るような鋭い視線が、どこからか絡みついた気がした。
少し離れた場所。着飾った人々の列の向こう。
確かめる暇もなく、すぐに招待客の影に遮られて見失ってしまったけれど。
胸が、きゅっと音を立てて鳴る。
呼吸が一拍、遅れる。
祝宴は、止まった時計の針が動き出すように滞りなく進んでいく。
誰と何を話したのか。
どのような高貴な方々に挨拶をしたのか。
後から懸命に思い返しても、霧の向こうの出来事のようにほとんど覚えていない。
ただ、鉛のような疲労と、幸福に終わりゆく時間だけが、静かに、確実に積み重なっていく。
頷いて、笑って、杯を受けて——その繰り返し。
お色直しの合図がかかり、今度は艶やかな色打掛に着替えさせられた。
白という『無』から、十二単とはまた違った深い深紅へ。
鏡の中に映る自分は、朝の怯えていた私とはまるで別の生き物のように見えた。
息を吸うと、胸の奥が強く鳴る。……強くなったのではない。強く見せられている。
再び暁臣様が待つ会場へと戻る。
無意識のうちに、先ほど強烈な視線を感じた場所を探してしまっていた。
見つけたくないのに、確かめたくて。
——けれど、そこには穏やかに微笑む綾乃様のお姿があるだけ。
どこを探しても、あの焦燥を煽るような気配はもう、感じられない。
……ああ。胸の奥で、すとん、と何かが落ちる音がした。
きっと、それでいいのだ。
きっと、それが——東宮殿下が下した、彼なりの答えなのだ。
これ以上、私の心からは何も奪わない。
これ以上、私に絶望も希望も与えない。
そうして彼は、私を『暁臣様の妻』として切り離したのだと……。
冷たいようで、ひどく公平な線引き。
祝宴がすべてお開きになるころには、私の身体も思考も、とうに限界を迎えていた。
暁臣様と共に、ようやく静寂の守られた帰路の車へ乗り込む。
扉が閉まる。
外の喧騒が、布を一枚隔てたように遠のいた。
目が合った瞬間、どちらからともなく手が伸び、指が絡む。
強く、ほどけぬように——確かめ合うみたいに。
今日、初めて触れる暁臣様の掌の温度。
その熱がじわりと移ってくるだけで、一日中張りつめていた緊張の糸が、ようやく優しく解けていく。
喉の奥に溜めていた息が、少しずつ吐ける。
窓の外は、すっかり深い夜の闇。
昼間の突き抜けるような秋晴れが嘘のように、世界は静かな沈黙に包まれている。
街の灯りが、遠くで滲んだ。
——帰るんだ、あのお邸へ。
不思議。
お邸を出たときは『朝霞すみれ』だったはずなのに。
今の私は『五条すみれ』になっているだなんて。
名前一つで、世界の輪郭まで変わってしまう。
『帰る』という言葉が、こんなにも甘やかで、尊く感じられる日が来るなんて。
かつての私には、想像すらできなかった。
帰る場所がある。それだけで胸が満ちるなんて——。
暁臣様の手に促されるまま、肩に頭を預ける。
硬いはずの礼装越しの肩が、今はひどく安心できる場所だった。
ゆっくりと目を閉じる。
もう、私が帰るべき場所はここしかない。
そのことだけは、暗闇の中でもはっきりと、鮮やかにわかっていた。
揺れに身を任せたまま、指を絡めた手に、そっと力を返す。
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