↓ ↑ページトップへ
表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
【Web版】無華の花嫁3~秘めた力を狙われた少女は、黒薔薇の殿下に溺愛される~  作者: 木風


この作品ページにはなろうチアーズプログラム参加に伴う広告が設置されています。詳細はこちら

PR
37/38

第二十一話 自分の足で一歩ずつ①

 玄関先に姿を現したすみれを目にした瞬間、文字通り息を吞み、呼吸の仕方を忘れた。

 肺が止まる。心臓だけが妙にうるさい。


 ——美しい。


 だが、その一語では、あまりに足りない。

 幾重にも重ねられた絹の色彩が、秋の柔らかな光を吸い込み、淡く艶めく。

 その奥深い層が、彼女の輪郭を静かに——けれど神々しく浮かび上がらせていた。

 色は洪水のようで、しかし決して騒がしくない。むしろ厳かだ。


 その重厚な装束の中に立つすみれは、目を見張るほどに儚かった。

 今にも折れてしまいそうで、風が吹けば消えてしまいそうな危うさ。

 なのに彼女は、そこに揺るぎない確かな存在として立っている。

 弱さではない。耐えている。あの重さの中で。


 ……見惚れている場合ではない。

 そう己を律しようとするが、抗いようもなく視線が吸い寄せられる。

 一度逸らせば戻れない気がして、結局、逸らせない。

 自分に言い聞かせ、平静を取り戻すまでに、かなりの時間を要した。


「……随分と、重そうだな」

「……はい……とても……身動きが、取れないくらいです」


 言葉を失った自分を誤魔化すように、絞り出したのはそんな何気ない一言だった。

 本当は、今すぐにでも触れたくて仕方がない。

 その細い肩を支え、腕の中に抱き寄せたい。

 だが今ここで私情を露わにすれば、この神聖な瞬間が俺個人の悦びに成り下がってしまう。


 今日は公の場だ。

 すみれを『俺のもの』だと世に誇示する日ではない。

 彼女を五条家の正妃、宮妃として正式に迎えるための儀式だ。

 ——そのために、俺は冷静でいなければならない。


「本当に……美しい。俺には、もったいないくらいだ」


 囁くと、すみれの虹彩色の瞳がわずかに揺れた。

 焦げ茶と紫。左右で異なる色が朝の光を鏡のように反射し、いつもより深く、神秘的に澄んで見える。

 その一瞬だけで、胸の奥が焼ける。


 ……その目で、俺以外の男を見るな。

 喉元までせり上がった独占欲を、強引に飲み込む。

 代わりに差し出すのは、触れない誓いだ。

 彼女のすぐ隣へ立ち、ただ呼吸の距離だけを守る。


 やがて出立の合図が下される。

 控えていた女房たちが一斉に声を落とし、その動きが流れるように揃った。

 車寄せへ向かう足取りは、極めて遅い。

 すみれの慣れない歩幅と衣装の重みを考慮し、すべての時間が彼女を中心に整えられていく。

 それは介添えではなく、『守り』に近い。


 車の扉が開き、すみれが慎重に乗り込む。

 十二単の裾が引っかからぬよう、熟練した複数の手が呼吸を合わせて動く。

 一分の隙もない手際に、今日という日の持つ重みを、改めて骨の髄まで思い知らされる。

 彼女一人の晴れの日ではない。家の歴史が、ここに来ている。


 俺も続いて車内へ滑り込むと、外の喧騒を遮断した不思議なほどの静寂が横たわっていた。

 タイヤが砂利を踏む音が遠のき、代わりに、絹が擦れる密やかな音。

 そして、隣に座る彼女の浅い呼吸だけが、耳の奥に心地よく残る。


 すみれは正面を見据えたまま、彫像のように微動だにしない。

 いや——動きたくても動けないのか。

 少しでも身じろげば着崩れる。何より重い。苦しい。

 その身体的な負担が、痛いほどに伝わってくる。

 肩口のわずかな上下が、必死な呼吸を教えてくる。


 ……大丈夫か、と声をかけるべきか。


 だが問えば、彼女は無理をしてでも微笑み、「大丈夫です」と答えるだろう。

 答えなくてもいい問いを投げて、彼女の精神的な余力を削るわけにはいかない。

 なら、俺がするべきは別のことだ。


 俺は車の揺れが少しでも穏やかになるよう、運転手の速度と路面の状態を鋭く注視した。

 道のうねり、石の継ぎ目、減速の癖。

 そんなことが気休めにしかならないと知りながらも、今の俺にできるのはそれくらいだった。

『見ている』ことしか、許されない。


 車窓の外を流れていくのは、抜けるような秋の青。

 木々の深い緑に混じる、わずかな朱と琥珀色。

 季節は、美しいほど確かに移ろっている。

 それが余計に、今日を現実にする。


 やがて、肌に触れる空気が一変した。

 街の騒がしい匂いが薄れ、古の湿り気を帯びた深い木の香りが、車内にまで満ちてくる。


 ——杜だ。


 天を衝くような高い木立が、視界を塞ぐように整然と並び、射し込む光が柔らかく屈折する。

 音も、他人の気配も、すべてが根源的な場所へ沈んでいく感覚。

 背筋が冷える。だが、怖いのではない。

 ここは——人の領分ではない、と本能が知っている。


 車が静かに止まった。

 扉の向こう側には、身の引き締まるような静けさが待っている。

 多くの人々が集まっているはずなのに、不思議と騒がしさはない。

 聞こえてくる声も足音も、どこか遠い世界の出来事のようだった。


 すみれが小さく息を吸い込むと、紅色の衣を纏った肩が、わずかに上下した。

 その横顔の凛とした美しさを見ただけで、胸の奥が熱く、そして締め付けられる。

 守りたい。——いや、守らねばならない。


 先に車から降り、すみれに手を差し伸べる——その寸前で、俺は思いとどまった。

 触れたい衝動を鉄の意志で抑え込み、代わりに、彼女の歩幅と呼吸だけをじっと見守る。

 触れずに支える。崩さずに寄り添う。


「ゆっくりでいい……俺が合わせる」


 そう短く告げ、神域を包む凛烈な空気の中へ、共に最初の一歩を踏み出した。

 彼女の足が畳まれた絹の上でわずかに揺れる。

 その揺れさえ、俺は見逃さない。

ブックマーク、★★★★★、リアクション

よろしくお願いします( *・ㅅ・)*_ _))ペコ

評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
『無華の花嫁』発売中
無華の花嫁
~華の加護なき無能な少女は、黒薔薇の殿下に愛される~
和風シンデレラ/異能恋愛/黒薔薇の殿下/虐げられ令嬢/救済&溺愛
本作品の文章・タイトル・設定等の無断転載、無断複製、生成AIへの入力および学習利用を禁じます。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。