第二十一話 自分の足で一歩ずつ①
玄関先に姿を現したすみれを目にした瞬間、文字通り息を吞み、呼吸の仕方を忘れた。
肺が止まる。心臓だけが妙にうるさい。
——美しい。
だが、その一語では、あまりに足りない。
幾重にも重ねられた絹の色彩が、秋の柔らかな光を吸い込み、淡く艶めく。
その奥深い層が、彼女の輪郭を静かに——けれど神々しく浮かび上がらせていた。
色は洪水のようで、しかし決して騒がしくない。むしろ厳かだ。
その重厚な装束の中に立つすみれは、目を見張るほどに儚かった。
今にも折れてしまいそうで、風が吹けば消えてしまいそうな危うさ。
なのに彼女は、そこに揺るぎない確かな存在として立っている。
弱さではない。耐えている。あの重さの中で。
……見惚れている場合ではない。
そう己を律しようとするが、抗いようもなく視線が吸い寄せられる。
一度逸らせば戻れない気がして、結局、逸らせない。
自分に言い聞かせ、平静を取り戻すまでに、かなりの時間を要した。
「……随分と、重そうだな」
「……はい……とても……身動きが、取れないくらいです」
言葉を失った自分を誤魔化すように、絞り出したのはそんな何気ない一言だった。
本当は、今すぐにでも触れたくて仕方がない。
その細い肩を支え、腕の中に抱き寄せたい。
だが今ここで私情を露わにすれば、この神聖な瞬間が俺個人の悦びに成り下がってしまう。
今日は公の場だ。
すみれを『俺のもの』だと世に誇示する日ではない。
彼女を五条家の正妃、宮妃として正式に迎えるための儀式だ。
——そのために、俺は冷静でいなければならない。
「本当に……美しい。俺には、もったいないくらいだ」
囁くと、すみれの虹彩色の瞳がわずかに揺れた。
焦げ茶と紫。左右で異なる色が朝の光を鏡のように反射し、いつもより深く、神秘的に澄んで見える。
その一瞬だけで、胸の奥が焼ける。
……その目で、俺以外の男を見るな。
喉元までせり上がった独占欲を、強引に飲み込む。
代わりに差し出すのは、触れない誓いだ。
彼女のすぐ隣へ立ち、ただ呼吸の距離だけを守る。
やがて出立の合図が下される。
控えていた女房たちが一斉に声を落とし、その動きが流れるように揃った。
車寄せへ向かう足取りは、極めて遅い。
すみれの慣れない歩幅と衣装の重みを考慮し、すべての時間が彼女を中心に整えられていく。
それは介添えではなく、『守り』に近い。
車の扉が開き、すみれが慎重に乗り込む。
十二単の裾が引っかからぬよう、熟練した複数の手が呼吸を合わせて動く。
一分の隙もない手際に、今日という日の持つ重みを、改めて骨の髄まで思い知らされる。
彼女一人の晴れの日ではない。家の歴史が、ここに来ている。
俺も続いて車内へ滑り込むと、外の喧騒を遮断した不思議なほどの静寂が横たわっていた。
タイヤが砂利を踏む音が遠のき、代わりに、絹が擦れる密やかな音。
そして、隣に座る彼女の浅い呼吸だけが、耳の奥に心地よく残る。
すみれは正面を見据えたまま、彫像のように微動だにしない。
いや——動きたくても動けないのか。
少しでも身じろげば着崩れる。何より重い。苦しい。
その身体的な負担が、痛いほどに伝わってくる。
肩口のわずかな上下が、必死な呼吸を教えてくる。
……大丈夫か、と声をかけるべきか。
だが問えば、彼女は無理をしてでも微笑み、「大丈夫です」と答えるだろう。
答えなくてもいい問いを投げて、彼女の精神的な余力を削るわけにはいかない。
なら、俺がするべきは別のことだ。
俺は車の揺れが少しでも穏やかになるよう、運転手の速度と路面の状態を鋭く注視した。
道のうねり、石の継ぎ目、減速の癖。
そんなことが気休めにしかならないと知りながらも、今の俺にできるのはそれくらいだった。
『見ている』ことしか、許されない。
車窓の外を流れていくのは、抜けるような秋の青。
木々の深い緑に混じる、わずかな朱と琥珀色。
季節は、美しいほど確かに移ろっている。
それが余計に、今日を現実にする。
やがて、肌に触れる空気が一変した。
街の騒がしい匂いが薄れ、古の湿り気を帯びた深い木の香りが、車内にまで満ちてくる。
——杜だ。
天を衝くような高い木立が、視界を塞ぐように整然と並び、射し込む光が柔らかく屈折する。
音も、他人の気配も、すべてが根源的な場所へ沈んでいく感覚。
背筋が冷える。だが、怖いのではない。
ここは——人の領分ではない、と本能が知っている。
車が静かに止まった。
扉の向こう側には、身の引き締まるような静けさが待っている。
多くの人々が集まっているはずなのに、不思議と騒がしさはない。
聞こえてくる声も足音も、どこか遠い世界の出来事のようだった。
すみれが小さく息を吸い込むと、紅色の衣を纏った肩が、わずかに上下した。
その横顔の凛とした美しさを見ただけで、胸の奥が熱く、そして締め付けられる。
守りたい。——いや、守らねばならない。
先に車から降り、すみれに手を差し伸べる——その寸前で、俺は思いとどまった。
触れたい衝動を鉄の意志で抑え込み、代わりに、彼女の歩幅と呼吸だけをじっと見守る。
触れずに支える。崩さずに寄り添う。
「ゆっくりでいい……俺が合わせる」
そう短く告げ、神域を包む凛烈な空気の中へ、共に最初の一歩を踏み出した。
彼女の足が畳まれた絹の上でわずかに揺れる。
その揺れさえ、俺は見逃さない。
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