第二十話 祝福のような空を②
十二単を整え終えると、休む間もなく今度は髪の支度とお化粧へと移った。
畳に深く腰を下ろしたまま、篠塚様が私に白粉を塗り始め、藤波様が恭しく漆塗りの櫛を手に取る。
櫛は灯りを受けて、黒く静かに艶めいている。
少し離れた場所では、篠塚様がどこか温かな眼差しで全体の進捗を静かに見守っていた。
気遣いの沈黙が、部屋を満たしている。
「すみれ様、少しの間、動かないでくださいね」
「……はい」
返事はしたはずなのに、声が自分のものではないみたいに細い。
櫛が髪に触れた瞬間、すう、と頭皮をなぞる冷ややかな感触に、思わず背筋が震え、その反動で肩の力がふっと抜ける。
髪を梳く音が、ひと筋、ひと筋、丁寧に響く。
これまでもお屋敷で髪を整えてもらうことはあったけれど、これほどまでに長い時間をかけ、一筋の乱れも許さぬよう扱われるのは初めてだった。
一束ずつ、慎重に、そして力強く。
髪が引かれるたびに、頭がわずかに後ろへと持っていかれる。
首のうしろが、じん、と熱を持つ。
「……っ」
言葉を発する余裕など、もうどこにもない。
ただ、されるがままに意識を委ねる。
複雑に結い上げられ、髪が固定されるごとに、ずっしりとした重みが頭頂部に集まっていく。
先ほどまで全身を押さえつけていた衣の重さに加え、今度は首と肩に新たな重圧がのしかかった。
それなのに、どこか背筋が伸びていくのがわかる。
逃げ場がなくなるほど、覚悟だけが残る。
最後に、繊細な細工が施されたかんざしが、かちり、という音を立てて差し込まれる。
「……終わりましたよ。さあ、鏡をご覧ください」
藤波様の柔らかな声に、ゆっくりと顔を上げる。
鏡の中に映り込んだその姿は、もはや私の知る『朝霞すみれ』ではなかった。
色彩の洪水のような衣を纏い、威厳すら漂わせるその姿は、まるで古の絵巻物から抜け出してきた、本物のお雛様のようで。
……あんな美しいお雛様みたいだなんて、私なんかが思うなんて、なんて烏滸がましいんだろう……
自分の姿に気圧され、卑下する思いが頭を掠める。
頬のあたりが、ほんの少しだけ強ばる。
けれど、瞳の奥に宿る戸惑いと決意だけは、確かに私のままだった。
怖い。けれど、逃げない。
そうやって、今日を迎えた。
「……すごい……」
小さく漏れた感嘆に、周囲の誰も笑わなかった。
ただ、今日まで私を支えてくれた女性たちが、満足げに、そして静かに頷き返してくれた。
その頷きが、背中を押す。
「それでは……出立いたしましょう。殿下がお待ちです」
立ち上がろうとした瞬間、足元がぐらりと大きくよろめき、咄嗟に両脇から支えられる。
畳を蹴って一歩、足を前へ運ぶだけで、全身の筋肉が悲鳴を上げ、視界が揺れる。
息を吸うたび、胸の奥が衣に押し返されるようだ。
歩く、というより——それはまるで、周囲の支えによって『運ばれている』感覚に近い。
自分の意思だけでは、前へ進めない。
それが悔しいはずなのに、今日はそれすら、ありがたかった。
長い廊下を進む間、幾重にも重なった絹が擦れる『しゅっ、しゅっ』という衣擦れの音だけが、耳元で厳かに響き続ける。
音に合わせて、心臓もゆっくり、ゆっくりと落ち着いていく。
玄関が近づくにつれ、ひんやりと澄み渡った空気の肌触りが変わるのがわかった。
外の気配が、扉の向こうで待っている。
そして、大きな玄関の扉を前に、足が止まる。
「……すみれ」
聞き慣れた、けれどいつもよりずっと深く響く声。
顔を上げると、そこには第一礼装を完璧に着こなした暁臣様が、まっすぐに立っていらした。
背筋の伸びたその姿だけで、胸の奥が熱くなる。
一瞬、世界から音が消え、時間そのものが止まったように感じる。
暁臣様の鋭い視線が、私の頭の先から裾の先までを、なぞるようにゆっくりと動く。
その瞳に宿った驚きと、小さく息を呑む気配が、肌を刺すように伝わってきた。
見られている——それだけで、頬が少し熱い。
「……随分と、重そうだな」
「……はい……とても……身動きが、取れないくらいです」
冗談めかした声音を選んでくださっているのに、その目はちっとも笑っていなかった。
私を茶化しているのではなく、ただ、真剣に見ている。
あまりの圧倒的な美しさを前にして、私からはそんな、正直すぎる言葉しか出てこなかった。
暁臣様が、私の方へ一歩、近づく。
けれど、暁臣様は私に触れない。
この完璧な装束を崩すことを恐れるように、ほんの少しだけ声を落として、私だけに聞こえるように囁いた。
「本当に……美しい。俺には、もったいないくらいだ」
その言葉だけで、視界が滲み、胸がいっぱいになる。
熱が喉の奥までせり上がって、返事ができない。
今まで、私は何度もこの方に助けられ、支えられ、運ばれてきた。
でも、今日だけは——
この重さに耐え、自分の足で一歩ずつ、この方の元まで歩いてきたのだと。
そう、初めて自分の誇りとして思える。
小さく頷くのが精一杯で、それでも暁臣様は、きっと分かってくださった気がした。
「行こうか」
暁臣様の力強い一言で、私は、ゆっくりと前を向く。
もうこれまでの自分には戻れないという寂寥感よりも先に——
ただ、生涯この人の隣にいるのだという事実だけが、心の中で確かな重石となっていた。
怖さは消えない。けれど、支えになる重さなら、抱えていける。
一歩、外へ踏み出すと、そこにはどこまでも澄み切った、祝福の青空があった。
秋晴れの鮮やかな光が玄関先に降り注ぎ、私の纏う美しい衣を、優しく、そして誇らしげに照らし出していた。
冷たい風が頬を撫で、私はその感触でようやく——今日が現実なのだと知った。
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