第二十話 祝福のような空を①
雲一つない、秋晴れ。
祝福のような空を一度だけ深く目に焼き付けてから、信子さんたちに導かれるまま畳の上へ座り直す。
今日という一日が、私の運命をどう変えるのか——まだ、何も見えない。
ただ。
朝、暁臣様と並んで穏やかな食事ができたこと。
あの手の温度と確かな感触だけが、消えない現実として胸の奥に残っていた。
促されるまま、私は静まり返った和室の真ん中に正座する。
背筋を伸ばしたつもりでも心許なく、広すぎる空間に気圧されそうになる。
信子さんが背後に回り、藤波様と篠塚様が厳かな面持ちで視線を交わした。
「では……始めさせていただきますね。少々お体が重くなりますが、辛抱なさってください」
その一言で、部屋の空気が張り詰めたものへと変わる。
まず、素肌に近い所へ触れる最初の一枚。
上質な絹の冷たさが、ひやりと露わな背中を撫でるように滑り落ちた。
「……ひゃっ……」
「すぐに、お嬢様の体温で馴染みますよ」
思わず漏れた震え声に、藤波さんたちが少しだけクスクスと笑う。
馴染むのだろうか、などと考える間もなく、次の一枚が重ねられた。
さらに、その上に。
また一枚。
布が増えるたび、当たり前に動かせていた身体の自由が、じわじわと奪われていく。
腕を少し上げ、ゆっくり下ろす。
それだけで、もう鉛を背負ったように重い。
「……あ、こんなに……」
言葉にした瞬間、胸が圧迫され、息が浅くなる。
肩、背中、腰。
経験したことのない重量が、確実に全身へ沈み込んでくる。
もはや何枚目なのか、自分でも数えられなくなっていた。
ただ——このままでは二度と立ち上がれなくなるのではないか、という奇妙な恐怖だけが、輪郭を持って迫る。
「すみれお嬢様。ゆっくり息を整えて。深く、吸い込んでください」
信子さんの穏やかな声に合わせて、必死に肺を広げる。
重い。
身体全体が、抗いがたい力で下へ、下へと引かれていく。
まるで畳の上に、私という存在を縫い留められていくみたいだ。
これを……私は着て、歩かなければならないの?
指先が、かすかに震え始める。
「大丈夫ですよ。今はまだ、お身体がこの重さに慣れていないだけですから」
藤波様の落ち着いた声が耳に届く。
慣れる、と言われても。
頭で理解しようとしても、身体の感覚が追いつかない。
さらに一枚。
そして、さらに一枚。
最後に豪奢な唐衣が肩に乗った瞬間、ぐっと重心が落ち、一瞬だけ視界が揺れた。
前へ倒れそうになるのを、背後で信子さんの手が強く支える。
「……っ」
「無理に踏ん張らなくていいんです。衣装に身を委ねるつもりで」
「……はい……頑張ります……」
絞り出した声は、少し掠れていた。
おそらく体重の半分に近い重さが、今、肩と腰にのしかかっている。
十九年の人生で、こんな重さを受け止めたことは一度もない。
蔵での暮らしが脳裏をよぎる。
あの頃の着物は、あまりに軽かった。
粗末で、薄くて、風が通り抜けるほどに。
だから動けた。いつでも逃げ出せた。
けれど、これは違う。
美しく、重厚で——決して独りでは逃げられない、『約束』の重さだ。
鏡の中にぼんやり映る自分が、一息ごとに『別の誰か』へ変わっていく。
その変貌が、はっきりとわかった。
眩いばかりの華やかな色。
幾重にも重なり合い、まるで物語を紡ぐような伝統の文様。
絹の光沢が、灯りを受けて波のように揺れた。
「……綺麗……」
自分の口からこぼれた感嘆に、いちばん驚いたのは私自身だった。
重い。苦しい。息が浅くなる。
それでも——目を逸らしたくない、と思ってしまう。
これは、私一人が背負っている重さではないのだと、ふと気づく。
多くの人が心を込めて整え、私を支え、ここまで大切に運んできた想いの結晶。
指先の一本、糸の端まで、誰かの時間が縫い込まれている。
藤波様の手が、最後に細かな帯の乱れを整え終えた。
布の表面を撫でる音が、かすかにする。
「——お支度、整いました」
その一言で、胸の奥がきゅっと締まった。
よし、と気合を入れて立ち上がろうとして——ようやく悟る。
ああ、私、一人では勝手に動くことすらできないんだ。
誰かの合図があり、誰かが手を差し伸べてくれなければ、歩くことも、向きを変えることすら叶わない。
肩を動かせば、衣がずり、と全身を引き留める。
足を出そうとすれば、裾の重なりが、ゆっくりとしか許してくれない。
けれど、不思議と怖くはなかった。
この圧倒的な重みの中で、私は決して一人ではない。
背後に立つ信子さんの気配、布を見守る藤波様の視線、篠塚様の落ち着いた佇まい——そのすべてが、私を前へ押してくれる。
暁臣様も、この重さを誇りとして知っている人たちも、皆、私と同じ方向を見つめている。
逃げない、と心の中で小さく言い切る。
静かに肺を満たし、息を整える。
重くて、動けなくて、足元すらおぼつかない。
掌にじわりと汗がにじむのを、袖の内側で感じた。
それでも——。
今日、この足で暁臣様の元へ辿り着くための、私にとって最高の鎧なのだと。
少しだけ、理解できた気がした。
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