第十九話 どうか一生、覚めないでほしい①
信子さんを見送った後、一人残された私は、明日のために設えられた煌びやかな十二単を見上げ、座ったまま動けずにいた。
部屋の中には、誰かの気配はもうない。
それなのに、絹の重なりが放つ静かな存在感だけが、私をじっと見つめ返してくるようで、視線を逸らすことができなかった。
ほんの二年前までは、擦り切れた薄い着物一枚で、凍えるような蔵の隅に息を潜めていた。
あの絶望の底にいたときは、『無華』という烙印を押された私が、誰かの『お嫁さん』になる未来など、逆立ちしても思い描けなかった。
誰かに選ばれるどころか、数に入れられることすらなかった。
名前を呼ばれることも、期待されることもない。
ただ、邪魔にならないように、目立たないように、存在を薄くして生きていた。
……やはり、これはすべて、都合のいい夢を見ているのかもしれない。
不意に怖くなり、確かめるように自分の頬を強く抓ってみる。
けれど、緊張で感覚が麻痺しているのか、思ったほどの痛みは返ってこない。
夢なら、覚める前触れは、もっとはっきりしているはずなのに。
やはりこれは、覚める直前の長い夢なのかもしれない。
そう思った瞬間、足元がぐらりと揺れ、今にも現実ごと崩れ落ちてしまいそうになった。
「……ここにいたんだな」
背後から低く落ち着いた声が響き、はっとして振り向く。
そこには、公務から戻られたばかりの暁臣様が立っていらした。
「あ……暁臣様。申し訳ありません、お戻りの時間に気が付かなくて……」
「いや、構わない……」
短く答えながら、暁臣様は手袋を外し、その素肌の掌で、そっと私の頬に触れた。
ひやりとした外気を帯びた指先が、すぐに私の体温を吸い上げていく。
「……頬が赤くなっている。どうしたんだ?」
「あ、ええと……。夢なのかもしれないと思って、自分で抓ってしまって……」
あまりに子供じみた理由を正直に口にすると、暁臣様の瞳に、微かな熱が宿る。
その手が私の髪を払い、影がゆっくりと近づいてきた。
次の瞬間、抓って赤くなった方の頬に、羽毛が触れるような、柔らかく、けれど確かな唇の感触が落ちる。
「……これでも、まだ夢だと思うか?」
至近距離で囁かれた声に、息をすることすら忘れて固まってしまった。
今の私の顔は、抓った赤みなど比べものにならないほど、耳の付け根まで熱く染まっているに違いない。
そんな私を、暁臣様は隠そうともせず、愛おしげに、そしてどこか愉しそうに見つめていらっしゃる。
私のことを、こんなにも熱のこもった眼差しで見つめる人が、この世にいるなんて——。
やはり夢かもしれない。
けれど、もしこれが夢なのだとしたら、どうか一生、覚めないでほしい。
寝間着に着替え、灯りを落とした静かな自室。
布団に入っても、昂ぶった神経は一向に鎮まる気配を見せず、眠りは遠いままだ。
胸の奥が、凪ぐことのないさざ波のように、ずっとざわついている。
明日、私はあの方の妻になる。
正式に、暁臣様の隣に立つことが許される。
今日という日は、『朝霞すみれ』として過ごす、人生で最後の一夜。
夜が明ければ、私は文字通り生まれ変わり、『五条すみれ』として歩み始める。
宮家に嫁ぐということ。
それは、今の戸籍から除籍され、皇族という貴い身分に編入されることだと、教育係の藤波様から厳格に教えられた。
暁臣様と共に生きると決めた以上、避けては通れない、神聖で、そして重い儀式。
どこにも居場所のなかった『無華』の私が、過去の籍を失い、あの方の隣という新しい居場所を公に得る。
その重みは、想像の範疇を遥かに超えていて、考えれば考えるほど意識は冴え、眠気は遠のいていくばかりだった。
ふと、先ほど頬に触れた暁臣様の温かな掌と、柔らかな唇の感触を思い出す。
その確かな熱が、これまであの方が私に注いでくれた体温のすべてを、奔流のように呼び覚ましていく。
激しい雨の中。
耳を貫く雷の轟音。
私を離すまいと抱きしめてくれた腕の強さ。
そして、私を慈しむように触れてくれた、あの指先。
「……暁臣様……」
暗闇の中でその名を呼ぶだけで、胸の奥がじゅっと熱を帯び、強張っていた心が少しずつ解けていく。
怖い。確かに、怖い。
明日の向こう側にある未来に、不安がないと言えば嘘になる。
それでも、やはり明日が来てほしいと願ってしまう自分がいる。
私は布団の中で、自分の指先をぎゅっと握りしめ、静かに目を閉じた。
どうか、明日。
二人を裂くような、不吉な出来事が何も起きませんように。
——そして、あの方との間に築いてきたものを、何一つ失いませんように。
祈りというより、縋るような思いでそれを何度も心の中で繰り返しているうちに、ようやく、重たい微睡が私を浅い眠りへと誘っていった。
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