第十八話 婚儀の前に
婚儀を明日に控えた、最後の一日。
あの日、庭園を切り裂いた雷鳴の響きから、早いものでもう四ヶ月の月日が流れていた。
焼け付くような盛夏は遠のき、瑞々しかった新緑は、燃える朱や深い黄金へと装いを変え始めている。
陽が落ちれば肌寒さを覚えるほど空気は澄み渡り、庭の草むらからは鈴虫の涼やかな音色が、静寂を惜しむように響き出していた。
——明日。
私は、暁臣様の妻になる。
そう思うだけで、胸の奥がきゅっと縮み、呼吸の仕方すら一瞬わからなくなる。
嬉しいはずなのに、怖い。
幸せが大きすぎて、手のひらからこぼれ落ちてしまいそうで。
朝から、屋敷の空気はどこか浮き足立つような、独特の熱を帯びていた。
廊下を行き交う女中さんたちの足取りはいつになく忙しない。
けれど、漏れ聞こえる声はいつもより低く、慈しむように柔らかい。
言葉の端々が、私を傷つけないよう慎重に選ばれているのが伝わってくる。
「すみれ様。明日のご準備がございますので……本日は、こちらへお越しくださいませ」
女中さんに促され、私は信子さんと共に、奥まった場所にある小さな控えの間へと通された。
障子を閉めれば外の気配はふっと遠のき、部屋の中だけが、静かな呼吸をしているように感じる。
部屋の中央には、真新しい桐の箱がいくつも恭しく積み上げられていた。
どれにも丁寧に紐がかけられ、清らかな封をするように白い紙が添えられている。
箱の角すら、触れれば壊れてしまいそうに整って見えた。
——明日、私はこの中に納められたものを身に纏う。
意識した瞬間、背筋がすっと伸び、同時に膝の力が抜けそうになる。
こんな私が、こんな場所で、こんなものを許されていいのだろうか。
蔵の湿った匂いと冷えた床板が、ふいに脳裏をよぎり、手のひらに汗が滲んだ。
「すみれお嬢様。最終の確認だけ、一緒にいたしましょうか」
信子さんが膝をつき、慣れた手つきで箱の紐を解いていく。
結び目がほどける音さえ、やけに大きく聞こえた。
蓋が持ち上げられた瞬間、ふわりと清々しい正絹の匂いが立ち上る。
新品の、けれど不思議と心を落ち着かせる匂い。
そこに収められていたのは、目も眩むような純白の重なりだった。
白いのに、決して一つではない『白』。
差し込む光の角度によって、あるときは氷のように冷ややかに透き通り、またあるときは真珠のように柔らかく艶めく。
贅を尽くした絹の地紋が、淡く浮き上がっては消える。まるで呼吸に合わせて瞬いているみたいだ。
そっと指先を伸ばし、その表面をなぞる。
布地は水のように滑らかに滑り、私の指を優しく受け入れた。
荒れ果てた蔵で育った私の指先が、あまりにも粗末に思えてしまうほど、それは至高の品だった。
「……綺麗……」
思わず漏れた溜息のような声に、信子さんが慈愛に満ちた笑みを浮かべる。
「はい。明日は、この白が、すみれお嬢様をこの世でいちばん美しく輝かせてくださいます」
帯、長襦袢、懐剣、末広……。
一つ一つ手にとって確認するたびに、遠い夢のようだった『明日』が、確かな形を持って私の前に現れてくる。
布の重み、紙の手触り、房の揺れ方——どれもが『逃げられない現実』を告げているのに、不思議と嫌ではなかった。
この白無垢は、ただ美しいだけの衣ではない。
私の中で、密かに決めていた大切な意味があった。
『純白を着せるのは、秋まで大切にとっておきたい』
あの日の暁臣様の声が、耳の奥で鮮やかに蘇る。
あのとき、東宮殿下が贈ってきた白い振袖は、私を閉じ込める檻のように見えた。
——着れば、引き寄せられる。拒めない世界へ、また連れ戻される。
そんな恐怖が、あの白には染みついていた。
けれど、今、目の前にあるこの白は違う。
これは、私が私の意思で、暁臣様の隣に立つために選んだ『白』。
誰かの思惑に押し流されるためではない。
私自身が『ここに立つ』と決めた、その証。
「すみれお嬢様……何か、ご不安なことはございますか」
信子さんの穏やかな問いに、ふいに言葉が詰まった。
不安がないはずがない。明日という日が怖い。
何もかもが変わり果ててしまうような、未知の重圧。
けれど『怖い』と安易に口にした瞬間、積み上げてきた決意のすべてが、ガラス細工のように崩れてしまいそうでもあった。
私はずっと、あの仄暗い蔵の中で、何も選べずに生きてきた。
与えられた僅かばかりの食事を摂り、言われるがままに振る舞い、何も感じないふりをする。
それが、心を守る一番楽な方法だったから。
怖いと口にする前に、怖さごと消してしまう。そうやって生き延びてきた。
でも、今は違う。
暁臣様のそばにいることが、いつの間にか私にとって呼吸をするのと同じくらい、当たり前の幸せになってしまった。
あの方のいない未来を想像するだけで、肺が潰れるほど息が苦しくなる。
だからこそ、怖い。
この温もりを失うことが、何よりも怖い。
「……怖い、です……とても」
やっとの思いで絞り出した声は震えていて、あまりに小さかった。
それでも信子さんは驚くこともせず、ただ包み込むように深く頷いてくれた。
「そうですよね。怖くて当然です。生まれてきた環境を捨て、新しい名を得るのですから……でも、すみれお嬢様」
信子さんは決して強く言わない。
諭すのでも、背中を押すのでもなく、ただそっと傷ついた羽を撫でるように言葉を紡ぐ。
「殿下は……いつだって、すみれお嬢様のお気持ちを何よりいちばんに重んじてくださる方です。明日も、そしてこれからも。きっと、それは変わりませんよ」
その言葉が胸の奥に静かに沈み、固く結ばれていた塊が、少しだけ解けていくのを感じた。
怖さは消えない。
けれど、怖いままでも——私は、明日へ進める気がした。
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