第十七話 ごめんなさい……暁臣様
肌にまとわりつくような、ほんのり汗ばむ湿度を感じて、深い微睡の底からゆっくりと意識が浮上していく。
窓の外では、まだ雨が降り続いているのだろう。
部屋の中は薄暗く、湿り気を帯びた静寂が、柔らかな膜のように満ちていた。
重たい瞼を持ち上げ、そっと視線を横へ向ける。
ベッド脇の椅子に腰掛け、腕と足を組んだまま静かに目を閉じている暁臣様の姿が、すぐそこにあった。
眠っていらっしゃるのだろうか。
けれど、眉間には深く険しい皺が刻まれている。
まるで眠りの中でも、なお私を守るために戦い続けているかのようで、胸がきゅっと締め付けられた。
雨の中、泥濘に膝をついた所までは覚えている。
あのあと、私はまた、この方の腕の中で意識を失ってしまったのだろう。
身体を動かそうとして、ふと袖口から覗いた自分の手首に目が留まる。
そこには、痛々しいほど鮮やかな赤い痣のような痕が残っていた。
——夢じゃ、ない。
東宮殿下に無理やり腕を掴まれ、あの冷え冷えとした香りに包まれたこと。
消そうとしても消えない現実を、私の肌が無言で訴えている。
「……っ……」
暁臣様に背を向け、布団の中で小さく身を丸める。
穢された。あんな恐ろしい方に触れられた私を、暁臣様はもう、汚らわしいと思って嫌いになられたかもしれない。
そう考えた瞬間、堪えていたはずの涙が溢れ出し、枕を濡らしていく。
声を殺して泣くたび、胸の奥が引き裂かれるように痛んだ。
——ごめんなさい……暁臣様、ごめんなさい……。
この一年で、少しは変われたと思っていたのに。
けれど結局、私はあの暗い蔵の中にいた頃と何も変わっていない。
こうして一人で蹲り、震えることしかできないままだ。
「すみれ……なにを泣いているんだ?」
ベッドが小さく軋む音とともに、頭上から低く柔らかな声が降ってくる。
「……ぁ、暁臣、様……」
恐る恐る顔を上げると、そこには、これまで見たことがないほど慈しみに満ち、それでいてどこか切なげな表情の暁臣様がいた。
その優しさが、今の私にはかえって刃のように胸を刺す。
「っ……わ、私……あんな……他の殿方に……っ、抱きしめられてしまって……っ」
「……なんだ、そんなことを気にしていたのか」
静かに、けれどきっぱりと告げられる。
「あんなものは事故のようなものだ。お前が気にする必要など、どこにもない」
そう言うと同時に、布団が捲られ、抵抗する間もなく力強く抱き寄せられた。
額に。
頬に。
濡れた瞼に。
暁臣様の温かな唇が、祈るように、何度も何度も優しく触れる。
「泣かせたくないと思っているのに……俺は、その潤んだ美しい瞳に、どうしようもなく弱いんだ」
痣の残る手首をそっと持ち上げられ、そこにも慈しむような口づけが落とされる。
その触れ方はあまりにも尊く、私の存在そのものを肯定してくれるようで、胸の奥が熱く焦げ、余計に涙が止まらなくなってしまう。
「……こうして泣けるようになったことすら、今の俺には喜ばしい」
確かに、以前の私は泣くことすら忘れていた。
泣けば『うるさい』と殴られるだけの場所で、生きてきたから。
暁臣様と出会ってから、私はどうしてしまったのだろう。
十九年間、心の奥底に溜め込んできた涙を、すべて吐き出してしまうかのように、この方の胸を借りて何度も泣いている。
腕の中に閉じ込められ、仄かに香る清涼な匂いに包まれていると、心に染み付いた毒が抜けていくのがわかった。
——ぐぅぅっ……。
「えっ……!?わ、わっ……」
突然意識を持ったように鳴り出したお腹の音に、顔から火が出そうになるほど恥ずかしくなる。
「……ぷっ。ははっ……そうか、腹が減っていたんだな。何か胃に優しいものを作らせよう」
「……すみません……こんなときに……」
「気にするな。そういう所も、幼子のようで可愛いと思っている」
幼子——。
その言葉が、胸に小さな棘のように引っかかる。
やはり暁臣様にとって、私は守るべき子供と変わらないのだろうか。
ずっと暗い蔵の中にいて、一般的な常識すら持たぬまま拾われた身だ。
身体ばかり大人になって、中身は何も知らないままの、未熟な存在。
「……やっぱり、暁臣様から見たら、子供ですよね……」
食事の手配のために立ち上がった、その広い背中に向かって、拗ねるように呟いた、その瞬間だった。
視界に大きな影が落ち、次の瞬間にはベッドに押し倒されていた。
先ほど東宮殿下に掴まれた腕を、今度はまったく違う熱を持つ手が制圧する。
「……っぁ……あ、き、おみ様……っ」
重なり、絡み合う唇。
これで七度目。
けれど、今までのどれとも違う。優しいのに、狂おしいほどに深い。
手首を掴む力が強まり、そこから熱が伝わってくる。
ちゅっ、と、甘い水音を立てて唇が離れる。
「……はっ……はっ……ぁき、おみ、様……?」
「……大人になるとは、こういうことだ」
低く、掠れた声。
怖くはない。
けれど、どう答えていいのかわからず、私の呼吸はただ浅く乱れるばかり。
「それをお前は……本当に、わかっているのか?」
「え……あ……」
問いかけに答えられず、ただ呼吸が浅く乱れる。
怖くはない。ただ、どう答えればいいのかわからない。
瞳を揺らして黙り込んでいると、暁臣様は「ふぅ」と深く長い溜息を吐き、ようやく私を解放して身体を離した。
「……怯えさせてすまない。少ししたら食事が届く。準備しておけ」
東宮殿下に掴まれたときは、あんなにも嫌悪しかなかったのに。
暁臣様に組み敷かれ、力尽くで求められるのは、まったく嫌ではなかった。
むしろ——もっと、その熱に触れていたいと願ってしまう。
掴まれていた腕が、微かにちりっと火花を散らすような、不思議な熱を帯びていることに、私はまだ気づいていなかった。
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