第十三話 まだ知らない世界①
信子さんが用意してくださった、数多の小説。
午後の柔らかな光が差し込む机の上に並べられたそれらは、私の想像を遥かに超えるほど、魅力的な本たちの山だった。
上品な布張りの表紙に、繊細な金の箔押しで題名が記された豪奢なもの。
表紙の角が少しだけ擦り切れ、誰かに何度も読み返されたであろう温もりを宿す本。
鮮やかな花や凛とした人物が描かれた挿絵入りのものもあれば、ただ題名だけが静かに並ぶ、質素な装丁のものもある。
どれもが、まだ知らない世界や感情を内側に抱えているようで。
指を伸ばすだけなのに、背筋がわずかに伸び、胸の奥がきゅっと引き締まるような緊張を覚えた。
「随分……たくさんあるのですね。私に、読み切れるでしょうか」
「ええ、もちろんですよ。お話には好みもありますし、作家さんによって読みやすさも違いますから。まずは、色々と手に取ってみてください」
信子さんは慣れた手つきで数冊を選び出すと、宝物を扱うように、私の前へそっと重ねて置いた。
「こちらは、使われている言葉が平易で、情景描写もとても丁寧です。初めての方でも、物語に入りやすいと思いますよ」
「……では、こちらの厚い本は?」
「それは少し長編ですね。まずは、こちらの短めのお話が幾つか纏められているものから始めてみましょうか」
促されるまま表紙を捲ると、古い紙とインクが混じり合った独特の匂いが、ふわりと立ち上った。
並んだ文字は思っていたよりも密に詰まっていたけれど、一文字一文字を追っていけば、今の私にとって、手の届かないものではないと分かる。
最初は、迷子にならないよう、指先で文字をなぞりながら。
意味の分からない単語が出てくるたびに、読むのを止め、分厚い辞典の頁を捲る。
一進一退の歩み。
それでも、物語は確かに、少しずつ前へと進んでいった。
貧しい家に生まれた孤独な娘が、偶然出会った高貴な男性に救われ、身分の違いという大きな壁に悩みながらも、少しずつ想いを寄せ合っていく——。
どこか私の境遇に重なるようで。
あるいは、誰かから聞いたことのあるような、ありふれた恋のお話。
それなのに、不思議と、続きを急かされるような感覚に陥ってしまう。
文字を追ううちに、冷え切っていた胸の奥が、ほんのりと温かくなったり。
登場人物たちの不器用な台詞に、どうしてそんな言い方をしてしまうのだろう、と立ち止まって考え込んだり。
そして——。
ふと、私の目が、ある一行で釘付けになった。
物語の終盤。
月明かりの下で近くに立つ男女が、互いの顔を熱く見つめ合い、やがて吸い寄せられるように、そっと唇を重ねる場面。
息が詰まるほど劇的な描写でも、見たこともない過激な言葉が並んでいるわけでもない。
それなのに、その淡々とした一行から、どうしても目を離すことができなくなってしまった。
唇を、重ねる。
……それは。
「……唇を重ねることを、『キス』という言葉で表すのですね。初めて、知りました」
思ったままを口にした瞬間、傍らにいた信子さんが、ぱちくりと目を丸くした。
何か、とんでもなく変なことを言ってしまったのだろうか。
慌てて弁明しようと口を開きかけた、その前に——信子さんは、春の陽だまりのような柔らかな表情を浮かべていた。
「……そうですね。定義は様々ですが……こと物語の中では、殿方の深い好意ゆえの行動、と捉えて差し支えないかと思いますよ」
「好意……故の、行動……」
殿方の好意。
その甘やかな響きを、胸の内で何度も反芻する。
思えば、暁臣様とも、何度かそういったことはあった。
額に。
頬に。
そして——胸が苦しくなるほど熱い、唇への接触。
けれど、それがこの本の中に描かれるような、特別な意味を持つ『キス』なのだとは、今の今まで考えたこともなかった。
最初は、ただ顔から火が出るほど恥ずかしくて。
くすぐったいような、心臓がどこかへ行ってしまいそうな、落ち着かない気持ちでいっぱいだった。
けれど次第に、胸の奥がじんわりと溶けるように温かくなり、ずっとこのままでいたい、と思うようになって。
そして、今の私は——。
その先に、まだ辞典を引いても載っていないような、名もなき別の感情が、静かに芽生え始めていることに。
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