第十三話 まだ知らない世界②
夕食を終えると、すみれは間を置かず机に向かい、昼間、信子殿が持ってきたという数冊の小説と分厚い辞典を広げて、せっせと小さな文字の列を追い始めた。
灯りに照らされた机の上は、まるで小さな世界の入口のようだ。
不慣れな辞典を引き、また小説の頁へ戻り、小首を傾げながら未知の言葉をなぞる。
時折、何かを噛みしめるように深く頷き、思い出したように次の行へ進む。
その華奢な背中を、書斎から戻った俺は扉口で足を止め、しばらく音を立てずに眺めていた。
——可愛いな。本当に。
脳裏に浮かんだのは、あまりに語彙の乏しい、だが偽りのない感想だった。
新しい知識を吸い込むこと自体が、楽しくて仕方がないのだろう。
暗く冷たい蔵の中で、たった一人、明日すら定かでない日々を過ごしていた頃には、文字を追う喜びも、物語に心を震わせる贅沢な時間も、きっと存在しなかったはずだ。
「……そんなに難しい言葉ばかりか?」
ふいに声をかけると、すみれは弾かれたように肩を跳ねさせ、慌ててこちらを振り返った。
「あ、暁臣様……!い、いえ、大丈夫です。少し、意味を調べていただけですので……」
「そうか。あまり根を詰めると、目を悪くしてしまう」
一体、どんな本を読んでいるのか。
何気ない風を装って、机の上に積まれた一冊を手に取る。
手触りの良い布張りの表紙。
上品な金の題字。
だが、頁を開いた瞬間、目に飛び込んできたのは——
月夜の庭園で寄り添い合う、男女の密やかな挿絵だった。
「…………なるほど」
嫌な予感が的中したまま、隣に積まれた別の一冊を取る。
さらにもう一冊、その次も。
表紙の意匠こそ違えど、中身はどれも、男女の情愛を赤裸々に、あるいは感傷的に描いた、紛れもない恋愛小説だった。
「…………」
思わず、天を仰いで重い溜息が漏れる。
「……信子殿も、随分と……察しが良いというか、何というか」
「……?あの、何か、問題がありましたでしょうか?」
「いや。本の内容に問題があるわけではない」
すみれがきょとんと首を傾げ、不安そうに俺を見つめてくる。
ああ、問題はない。確かにない——ただ。
これは、信子殿による、少しどころではない、かなり意図的な『教育』だ。
これらの本を選んだということは、すみれが今、どこまで『大人の感情』に触れ始めているのか。
そして、この俺が、彼女にどこまで踏み込んだ接触をしてしまったのか。
すみれが最も信頼している相手だ。
おおよその事情は、恐らく筒抜けなのだろう。
……しまったな。完全に油断していた。
ほんの軽い慰めのつもりで、すみれに触れているわけではない。
だが、正式な婚儀を前に、情動に任せて距離を縮めてしまったという自覚が、胸の奥をちくりと刺す。
「……暁臣様?どうかなさいましたか?」
「いや、何でもない……続けてくれ」
潤んだ瞳で見上げられると、その無垢さが、かえって毒のように理性を侵食する。
これ以上、俺が先走って彼女の純真を汚すわけにはいかない。
そう言い聞かせながらも、再び机に向かい、熱心に頁をめくる白い横顔から、どうしても目が離れなかった。
一行一行を真剣に追い、時折、桃色に染まった頬を自分で押さえるような仕草。
意味を確かめるように、細い指先が辞典の紙面を彷徨う。
……待て。
今、彼女が読んでいる辺りは、確か——。
「……今日は、そのくらいにしておけ。夜更かしは体に毒だ」
「はい……でも、あと少しだけ。キリのいい所まで……」
小さく笑って返す、鈴を転がしたような声。
その響きだけで、胸の奥がじわりと制御不能な熱を帯び始める。
信子殿が何を考えてこれらの本を持ってきたのか。
そして、すみれが物語を通して、どこまで『男と女』を知ろうとしているのか。
その両方を悟ってしまい、耐えきれず、静かに背を向けた。
……本当に、身近な者の察しが良すぎるというのも、困りものだ。
夜が更けるまで、書斎で仕事をするふりをして机に向かっていたが、隣室から微かに聞こえる衣擦れの音や、頁をめくる小さな気配を、俺はずっと意識し続けていた。
すみれの動きが少しずつ緩慢になっていることに気づいたのは、柱時計の針が深い時間を指してからだ。
頁をめくる規則的な音が途切れがちになり、辞典を引く手つきも、夢の入口を彷徨うように心許ない。
「……すみれ、もうそれくらいにしておけ」
背後から声をかけると、彼女は慌てて背筋を伸ばして振り返った。
「は、はい、暁臣様……申し訳ありません」
「謝ることはない。ただ、これ以上は身体に障る。今日はここまでだ」
そう告げると、すみれは一瞬だけ、名残惜しそうに本を見下ろした。
だが、すぐに納得したように、小さく頷く。
「……はい。そう、します」
小説をそっと閉じ、重たい辞典を丁寧に重ねる仕草が、ひどく幼く、そして健気だ。
それだけで、胸の奥が不意に締めつけられる。
「安心しろ。本は逃げない。明日も、明後日も、お前の前にある」
「……ふふ。そうですね。楽しみは、取っておくことにします」
立ち上がろうとしたすみれが、座り続けていたせいか、ふらりと身体を揺らした。
咄嗟に腕を伸ばし、細い肩を抱き寄せて支える。
「……っ」
「無理をするなと言っただろう」
腕の中の体温は、驚くほど軽く、ほのかに甘い香りがした。
一瞬、呼吸が詰まる。
だが、彼女を惑わせるわけにはいかない。
すぐに力を緩め、添えるだけに留めて自立させた。
「……ありがとうございます、暁臣様」
見上げた瞳は、少し眠たげに潤んでいる。
これ以上、厳しい言葉も、甘すぎる言葉も、口にできなかった。
静まり返った廊下を並んで歩き、私室の前まで送る。
扉の前で足を止めると、すみれが躊躇うようにこちらを見上げた。
「暁臣様……」
「どうした?」
「……その、あの……」
言葉を探して視線を彷徨わせ、やがて小さく首を振り、微笑む。
「……おやすみなさいませ」
「ああ。良い夢を。おやすみ」
短い挨拶を交わし、扉が静かに閉まる。
——結局、触れなかった。
触れれば、彼女はきっと拒まない。
だが、欲望に任せてその手を取ることに、何の意味がある。
信子殿の意図も、すみれが『知ろう』としている理由も、すべて理解しているからこそ——。
……急ぐな。
暗い廊下で独り、そう呟く。
漂うのは、微かに残った彼女の残り香と、扉の向こうで静かな眠りに落ちた気配だけ。
それでいい。今は。
婚儀までは——
いや、婚儀の後でさえも。
すみれが、自分自身の心で、きちんと俺を『知りたい』と望んだときに、その手を取ればいいのだから。
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