第十二話 温もりに身を委ね②
朝餉の席は、いつも通り静謐な空気に満ちている。
立ち上る味噌汁の柔らかな湯気。
こんがりと焼かれた旬の魚の、ほのかに甘い香ばしさ。
丁寧に、薄く切り揃えられた季節の漬物。
開け放たれた窓の向こうからは、朝露に濡れた庭木を渡る鳥の声が、微かに届いてくる。
静かで、整っていて、何も乱れのない朝。
暁臣様は、まるで昨日の出来事が夢だったかのように、いつもと同じ時刻に席に着かれた。
いつもと同じ無駄のない所作で箸を取り、そして、いつもと変わらぬ温度で「おはよう」と声をかけてくださる。
「……おはようございます、暁臣様」
私もまた、教えられた通りの作法で、いつもと同じ言葉を返す。
いつもと同じように、穏やかな微笑みを浮かべて。
——けれど。
何一つ、同じではないような……
視線を手元の器に落とすたび、網膜の裏に、昨夜の藤棚が鮮やかに浮かび上がる。
降り注ぐ紫の影。
花の香り。
そして——。
唇に触れた、あの熱い温度。
呼吸を奪うほどに、私を閉じ込めた腕の強さ。
暁臣様は……昨夜のことを、もう忘れてしまわれたのだろうか。
私自身は、こうして今も指先の先まで痺れるような感覚を、どうしても忘れられずにいるのに。
それなのに、目の前の暁臣様の表情はどこまでも凪いでいて、何一つ変わった様子は見受けられない。
その自然すぎる振る舞いが、今の私には、ほんの少しだけ——突き放されているようで。
「……口に合うか。今朝の味付けは」
暁臣様が、私の手元の器に視線を向けたまま、静かに尋ねられる。
それは、これまで幾度となく交わされてきた、淡く、やさしい気遣いの言葉。
「はい……とても。美味しくいただいてます」
そう答えながら、胸の奥に溜まっていた不安が、少しだけ緩むのを感じた。
大丈夫。
何も起きていない。
昨日の情熱的な暁臣様も、あんなふうに激しく求められたことも、きっと——
私が慣れない社交の場で、勝手に過敏になっていただけ。
そう自分に言い聞かせ、納得させようとした、その瞬間だった。
暁臣様の箸が、ふと止まった。
ほんの一瞬。
瞬きよりも短い、刹那の時間。
けれど確かに、彼の長い指先に、微かな力が籠もるのが見えた。
器の縁に触れていた箸先が、言葉にできない葛藤を孕んだような。
……気のせい、だろうか。
すぐに暁臣様は、何事もなかったかのように食事を再開する。
流れるようで、寸分の乱れもない所作。
まるで、最初から何も起きていなかったかのように。
取り残されたのは、私だけ。
時間の狭間に置き去りにされたように、その一瞬の綻びを、胸の奥でぎゅっと握りしめてしまう。
昨夜、壊れ物を扱うように、けれど決して逃がさないと誓うように、私を抱いた強い腕。
そして今、目の前にある、いつも通りの静けさ。
その間に横たわるはずの、本当の感情が、どうしても見えない。
何かを言いかけて、喉元までせり上がった言葉を、慌てて飲み込む。
このまま、昨夜のことなど夢だったことにして、何も言わずに終わらせれば、きっと楽だ。
楽で、正しくて、暁臣様との間に、余計な波風を立てることもない。
……でも。
どうしても、聞きたい。
昨日の暁臣様は、どうしてあんなふうに私を求めたのか。
あの方の目の奥に宿っていた、冷たくも熱い、あの光は。
それは本当に、私の勘違いだったのだろうか。
「暁臣様……」
「どうした、すみれ」
思い切って呼びかけると、暁臣様はゆっくりと顔を上げ、深い湖のような瞳で私を見つめられた。
その視線があまりに優しくて、胸の奥が、きゅっと締め付けられる。
今、聞けばいい。
私の素直な気持ちを、ありのまま。
——そう思ったのに。
言葉は喉の手前で、石のように固くなって動かない。
今ここで口にしてしまったら、昨夜のあの甘く切実な出来事が、暁臣様にとって『重い責任』や『負担』に変わってしまう気がした。
お優しいこの方の瞳に、困ったような色が浮かぶのを、どうしても見たくなかった。
……何より。
私自身が、一番、暁臣様を困らせたくなかった。
気づけば、唇から零れ落ちたのは、臆病な私の、別の言葉だった。
「……いえ。今日は、その……お忙しいでしょうか」
本音から遠ざかるような問い。
自分でも情けなくなるほど、回りくどい言い方。
暁臣様の目が、ほんの少しだけ細められる。
責めるでもなく、否定するでもなく——
まるで、私の心の奥を静かに見透かそうとするような眼差し。
「……何か、気になることでもあるのか」
心臓が跳ねた。
気づかれている……?
言いかけて飲み込んだ、本当の問いまで。
「……いいえ。大丈夫です。何も、ございません」
「そうか」
掠れそうになる声を、必死に整えて答える。
暁臣様は、しばらく探るように私を見つめていたが、やがて何かを諦めたように、小さく、柔らかな吐息を吐き出された。
それだけ。
たったそれだけなのに、その溜息一つが、妙に切なく、ひどく寂しく胸に残る。
私はただ、強張った顔で微笑み、頷くことしかできなかった。
わからない。
暁臣様は、私なんかとは違って、大人だから——。
それでも。
席を立った暁臣様の視線が、一瞬だけ、躊躇うように私から離れなかった。
まるで、何かを言いたいのに言えないもどかしさを抱えているのは、私だけではないのだと、そう訴えかけてくるみたいに。
そんな、不器用な錯覚だけが。
いつまでも胸の奥に、熱く、苦しく、残り続けていた。
ブックマーク、★★★★★、リアクション
よろしくお願いします( *・ㅅ・)*_ _))ペコ





