第十二話 温もりに身を委ね①
朝の光はどこまでも柔らかなのに、私の胸の奥だけは、凪ぐことのないさざ波が立ち続けている。
窓辺に差し込む白い光は穏やかで、昨日の出来事など何一つ知らない顔をしているのに。
枕元の時計が、淡い音すら立てずに時間を刻んでいく。
昨夜、私はきちんと眠れたのだろうか。
それとも、覚醒と夢の狭間を行き来しながら、ただ目を閉じていただけなのか。
考えようとすると、輪郭が曖昧になって、はっきり思い出せない。
瞼を閉じれば、今も鮮やかな紫色の花が浮かぶ。
藤棚の下。
揺れる花房が落とす、複雑で繊細な影。
あの場の空気まで、胸の奥に蘇ってくる。
そして——。
暁臣様の、熱を帯びた唇。
頬に触れられた瞬間の、あの火照るような熱が、今も肌の奥に残っている気がしてならない。
慈しむようでいて、どこか切迫した、追い詰められたような手つき。
私を閉じ込めた腕の力は、これまでのどのときよりも強く、痛いほどだった。
「……昨日の、こと……」
独り言のように零れた声は、静かな部屋に溶けて、何の答えも返さない。
暁臣様と唇を重ねたのは、これで六度目。
けれど、昨日の暁臣様は、どこかいつもと違って見えた。
私が花に見惚れている間も、その視線は、私ではない何か——
背後にある、遠い所にある何かを警戒しているようで。
唇を寄せてくださったとき、その眼差しだけが、凍てつくように冷たく光っていた気がする。
——私が、何か不手際をしてしまったのかもしれない。
そんなはずはない、と心の中で否定する。
私はただ、咲き誇る藤を綺麗だと思い、暁臣様の温もりに身を委ね、そのお言葉に頷いただけだ。
それなのに、胸のざわつきが、どうしても収まらない。
園遊会の最中も、その後の帰り道も。
暁臣様はいつも通り、私の歩調を気遣い、優しく大きな手で導いてくださった。
一年前のように、戻るなり倒れてしまうこともなかった。
怖いことなど、何も起きなかったはずなのに。
「……わからない……」
答えの出ない問いを抱えたまま、視線が自然と鏡へ落ちていく。
鏡に映る私は、皮肉にも昨日より少し顔色が良く、頬には健康的な赤みが差している。
寝不足のはずなのに、目元だけが妙に潤み、熱を含んでいるようにも見えた。
——恥ずかしい。
ふいに記憶が鮮明に蘇り、胸がぎゅっと締め付けられる。
あんな場所で、あんなふうに激しく求められたことを、私は心の底で『嬉しい』と感じてしまった。
その事実が、今さらになって、遅れて胸に刺さる。
嬉しいと思っていいのだろうか。
ふしだらだと、思われないだろうか。
誰も周りにいなかったとはいえ、あんな公の場で。
何より、暁臣様が何かを必死に押し殺すようにしていたことが、どうしても引っかかる。
私はただ、その腕の中で甘えていただけなのに。
……暁臣様は、今、何を思っていらっしゃるのだろう。
聞きたい。確かめたい。
けれど、怖くて聞けない。
もし、問いかけたせいで、あの温もりに触れていただけなくなったら——それだけは、耐えられない。
私がその問いを口にした瞬間、昨夜の出来事が『重い枷』に変わってしまう気がして。
暁臣様のあまりに深い優しさに、これ以上、私自身の不安という荷物を積み上げてしまうのが、恐ろしかった。
——私は、いつもこう。
わからないことがあると、貝のように口を閉ざしてしまう。
不安を覚えると、一人で抱え込み、立ち止まってしまう。
けれど、どれほど考えても、私のような未熟な人間に、答えが見つかるはずもない。
暁臣様が私に向けてくださるお言葉は、いつも変わらないのに。
『ここにいていい』
『離れるな』
『大丈夫だ』
その一つ一つが、暗闇の中にいた私を照らし、生きる場所を与えてくれたというのに。
「……今日も、ちゃんと暁臣様の前で、笑えますように」
そう願って、深く、一度だけ呼吸を整える。
胸のざわめきが完全に消えることはなくても、立ち上がる理由には、十分だった。
廊下から、聞き慣れた足音が近づいてくる。
女中さんの控えめな声が、扉越しに響いた。
「すみれ様、朝餉のご用意が整いました。殿下のお部屋の方に」
「はい……ありがとうございます。すぐ参ります」
返事をする私の胸の奥では、まだ小さな疼きが残っている。
それでも、今の私は、一年前の私ではないはずだ。
考えてもわからないことがあるのなら。
せめて——。
暁臣様の隣に立つに相応しい自分であるために。
今、私にできることを、精一杯務めるしかないのだ。
そっと着物の袖を整え、扉へと向かう。
窓から差し込む朝の光はやわらかく、穏やかで、昨日の出来事など何一つ知らない顔をしている。
それでも——昨日、藤棚に揺れていた紫だけが、まだ私の胸の奥で、優しく、そして不穏に揺れ続けていた。
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