第十一話 藤棚の下の光景③
屋敷に戻り、夜の静寂に身を沈めてもなお、腕の内にはすみれの柔らかな体温が、焼き付いたまま残っていた。
熱い湯を使い、衣服を改め、肌から外の空気を丁寧に拭い去っても、消えない。
指先が、あの瞬間のすべてを、まるで傷跡のように鮮明に覚えている。
藤棚の下で、彼女の頬に触れたときの、吸い付くような肌の感触。
唇が重なった刹那、愛しさが込み上げるかすかな震え。
「……やりすぎた、か」
書斎の机に両手をつき、重苦しい吐息を吐き出す。
確かに、見せつけるつもりだった。
否定はできない。
あの男——
東宮の、澱んだ『黄薔薇』の気配を肌で感じた瞬間、思考が形を成すより先に、所有欲に突き動かされた身体が勝手に動いていた。
理屈ではなかった。
高潔な怒りとも、どこか違う。
ただ、自分がようやく見つけた唯一の光を、薄汚れた手で奪われる——
そんな不吉な予感だけが、冷たい指で背骨をなぞった。
「……すみれ」
その名を唇に乗せるだけで、喉の奥がじり、と焼ける。
呼びかけるたび、心の深い所が軋む。
今日の彼女は、本当によく耐え抜いた。
好奇と蔑みの入り混じった視線の嵐を浴びながらも、逃げ出さず、俺の隣で凛として挨拶をこなした。
一年前、俺の腕に縋りつくように震えていた姿を思えば——それは疑いようもなく、彼女自身の努力の積み重ねだ。
そんな彼女を、ただ静かに守りたかった。
それが、本心だったはずなのに。
藤の花の下で抱き寄せたとき、腕の中に収まる彼女のあまりの細さに、心臓が一瞬、凍りついた。
以前よりはましになったとはいえ、まだ痩せている。
あまりにも軽い。
——このまま強く抱けば、折れてしまうのではないか。
そう思った瞬間、自制とは逆に、腕に力がこもった。
あれは、東宮に見せつけるためだけではない。
自分自身に言い聞かせるためだった。
ここにいる。彼女は確かに、俺の腕の中で、生きているのだと。
「……最低だな、俺は」
誰に聞かせるでもなく、自嘲気味に呟く。
守ると言いながら、その実、俺は自分の中に巣食う得体の知れない不安を、すみれの温もりで埋めているだけではないのか。
それでも——
彼女は、決して俺を拒まなかった。
重なる唇から零れた、あの一言。
『暁臣様……私を、ずっとおそばに……』
あれは、間違いなく彼女自身の意思だった。
そう信じたい。いや——信じさせてほしい。
……それなのに。
東宮の、あの執着に満ちた気配を思い出すたび、胃の奥に氷水を流し込まれたような冷えが広がる。
もし、奴が次に卑劣な手段で、すみれの前に現れたら。
もし、拒むことのできない『贈り物』を、また押し付けてきたら。
もし、東宮の権限という名の制度で、彼女を強制的に呼び出したなら。
正義と秩序の仮面を被った、独善的で、腐りきった支配。
その力を前にして、今の俺に、何ができる。
俺から手を出せば、すべては破滅だ。
皇族を敵に回せば、すみれを守るどころか、彼女の居場所そのものを、この国から消し去ることになる。
かといって、礼法という名の鎖で押し返せば、絡め取られ、底なしの泥沼へ引きずり込まれるだけだ。
「……くそっ」
これほどまでに、無力感に苛まれ、醜く感情を乱す日が来るとは思わなかった。
常に冷静でありたい。
彼女を不安にさせるような影は、決して見せたくない。
それなのに、今日のあの一瞬——あの男と視線が交わった、たった一瞬で、俺の中の何かが、致命的な音を立てて揺らぎ始めた。
——奪われたくない。
守る、という高潔な言葉では足りない。
もっと泥臭く、身勝手で、醜い感情。
『奪われたくない』という独占欲が、喉の奥に苦く沈殿している。
……しかし。
あの男が何を企んでいようと、最後に選ぶのは、すみれ自身だ。
彼女を信じ抜くこと。
それだけは、決して見失ってはならない。
目を閉じ、ゆっくりと深く呼吸を整える。
明日、彼女の顔を見たとき、俺は今日の自分の蛮行を、どう受け止めるのか。
謝罪するのか。
すべてを打ち明けるのか。
それとも、臆病なほど何もなかった顔で、いつも通りを装うのか。
どの選択肢も正しい。
だが、今この胸を満たす渇望を癒すには、どれも決定的に足りない。
窓の外で、夜風が不穏に鳴っている。
遠い庭園に咲き誇る藤の紫は、今もなお、暁臣の胸の奥で、重く、静かに垂れ下がっていた。
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