第十一話 藤棚の下の光景②
夜がどれほど深く更けても、恒一は寝台に横たわることすらできなかった。
寝所に下がり、女官たちを退かせ、窮屈な礼装を脱ぎ捨てても。
髪をほどき、肌を清めても。
宴の残り香は、煤のように皮膚へ貼りつき、どうしても剥がれ落ちない。
それは酒の匂いでも、華やかな楽の余韻でもなかった。
脳裏にこびりついて離れないのは、網膜を焼くほど鮮烈だった藤の色——『紫』だ。
瞼を閉じるたび、重なり合う花房が滝のように降ってくる。
その幻影の下で、暁臣があの娘の頬に、慈しむように触れていた。
指先の動きまで、妙に鮮明だ。
……なぜ、あのような場で。
問う相手はいない。
答えも要らない。
ただ、勝手に再生され続ける残像が、恒一の安眠を拒み続けている。
唇が重なった瞬間、あの娘の肩が、羽を休める小鳥のように、ほんのわずか揺れたことまで。
彼女は拒んでなどいなかった。
むしろ、吸い寄せられるように身を預け、あの破壊の化身である男の腕の中へ、自ら溺れていったのだ。
「……っ、くそ……」
喉の奥が焼けつくように熱い。
唾を飲み込んでも、何も収まらない。
不快だ。
到底、許しがたい。
高貴なる宮家の血を引きながら、暁臣があれほど野蛮な真似をしたことも。
そして、無垢を装った『無華』の娘が、それを受け入れ、悦びに震えていたことも。
——だが。
胸の奥に、どろりと湧き上がるものは、正義感ゆえの怒りだけではなかった。
暁臣の手のひらが伝えたであろう温度。
指先が頬に触れた、あの絶妙な角度。
それに応えた、あの娘の潤んだ瞳。
「……違う。そんなはずはない」
何が違うのか、言葉にできない。
否定だけが、虚しく口をついて出る。
あれは、私への見せつけであり、浅ましい挑発だ。
次期天皇たる東宮に向けた、宣戦布告に近い侮辱——そのはずだ。
そう論理では理解している。
それなのに、身体は勝手に裏切りの反応を示す。
呼吸が浅く鋭くなり、熱が腹の底へ、重く、粘つくように落ちていく。
——ほしい。奪いたい。今すぐに。
思考はそこで限界を迎え、次の瞬間、強い吐き気が込み上げた。
何を考えている。何を言っている。
あの娘は、単なる道具だ。
暁臣の不敗の象徴である『黒薔薇』を削ぎ、無力化するための——替えの利く部品に過ぎないはずだ。
「……道具、だと?」
自分の口から漏れた言葉が、月明かりも届かぬ薄暗い寝所に、虚しく落ちる。
道具なら、なぜ藤の下で見せた彼女の表情が、これほどまでに胸を深く刺すのか。
道具なら、なぜ一瞬、視線が交わっただけで、心臓が爆ぜるほど打ち鳴らされたのか。
道具なら——なぜ、ここまで私の内側を掻き乱す。
暁臣と目が合った瞬間に覚えた、あの得体の知れない感情の正体は何だ。
恐怖か。いや、東宮である私が、一宮家の男を恐れるはずがない。
あれは——。
——見透かされたのだ。
そうだ。
私が、あの娘を単なる『力』の源としてではなく、一人の女として、浅ましくも『ほしい』と渇望してしまったこと。
その歪みのすべてを、あの男に見透かされたのだ。
「……ふざけるな……ふざけるな、暁臣……っ!」
誰に向けるでもない咆哮。
拳を強く握りしめると、手入れされた爪が掌に食い込み、痛みとともに血が滲んだ。
それでも構わない。正しいのは自分だ。
この国を盤石にするため、強すぎる『黒薔薇』を排し、秩序を守る——それが東宮の役目なのだ。
あの『黒薔薇』という理不尽が存在する限り、自分は完全な天皇にはなれない。
だから、彼女が必要なのだ。『無華』でありながら、死神を飼い慣らすあの娘が。
そうだ。必要なのは、彼女の『能力』であって、感情などではない。
……なのに。
思い出すたび、腹の底から競り上がる熱が、理性を焼き尽くしていく。
彼女を組み敷き、あの瞳に絶望と屈服を浮かべさせ、暁臣を求めて鳴くその声を、自分への悲鳴へと変えたい。
自分が、自分ですら制御できない何者かへ変質していくのが、はっきり分かる。
憎い。暁臣が憎い。
あの娘が——いや、違う。
憎いのは、あの娘のすべてが、今はまだ暁臣のものだという事実だ。
「……ならば」
ならば、奪えばいい。力ずくでも。
声に出して初めて、胸に溜まっていた濁った衝動が、はっきりと輪郭を持った。
理屈はいくらでも立つ。皇族の制度は、そのためにある。
慈悲深い『救済』の仮面など、いくらでも用意できる。
そうしなければならない。
——そうしなければ、この疼きは、一生収まらない。
その真実に気づいた瞬間、恒一は、かっと目を見開いた。
自らが何を失い、どこへ堕ちようとしているのか。
致命的な欠落に気づかぬふりをしたまま、彼は静かに立ち上がる。
窓の外には、死んだように静かな闇が広がっていた。
けれど恒一の脳裏には、まだ——
残酷なまでに美しい、藤の紫が、雨のように降り続いていた。
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