第十一話 藤棚の下の光景①
——いた。
色とりどりの着物が波打つ人波の向こうに、否応なく視線を引き寄せる姿を見つけた瞬間、恒一の足は磁石に吸われるように、自然とそちらへ向かっていた。
婚約者を伴っていることなど、百も承知だ。
分かっている。それでも、今すぐ近づかなければならない——
そんな強迫観念にも似た衝動が、理性の手綱を乱暴に引きちぎってくる。
声をかける理由なら、いくらでも用意できる。
皇族としての儀礼。従兄弟への形式的な配慮。あるいは、婚約内定に対する表向きの祝辞。
どれも、口に出してしまえば通用するはずだった。
そう目論んだ、まさにその矢先——。
暁臣は、あの娘の肩を包み込むように腕を回し、庭園のさらに奥、人の気配が薄れていく方へと歩みを進めていった。
……私から、逃げたのか。
わずかに眉がひそめられる。
ここで呼び止めなかったのは、東宮としての矜持があったからだ。
衆人環視の中で、東宮が特定の娘を追う。
それだけで、どれほど下世話な噂が広がるか——考えずとも分かる。
——だが。
藤棚の下へ辿り着いた二人の影を捉えた瞬間、恒一の足は、まるで地面に縫い留められたかのように止まった。
降り注ぐ紫の花のカーテン。その奥で、暁臣があの『無華』である娘の頬に、吸い付くように手を添える。
次の瞬間。
抗う余地すらない力強さで、二人の唇が重なった。
……なぜ。
思考が、ガラスの破片を床に撒き散らすような音を立てて、途切れる。
理解が、感情に追いつかない。
あれは、単なる睦み合いではない。
偶然、目に入ってしまった情景などでは、決してない。
隠れて見ているこの私へ向けて——あまりにも露骨で、野蛮なまでに見せつけるための口づけだ。
気づけば、恒一は反射的に身を引いていた。
低木の影。通り過ぎる他人の背後。
——自ら隠れるという、卑屈な選択をした事実に、恒一自身が最も驚愕していた。
この国の至高を約束された東宮である、この身が。
なぜ、逃げ隠れなどしなければならない。
息を殺し、視線だけで再び藤棚の奥を窺った、その瞬間——。
五条暁臣の冷え切った瞳と、視線が真っ向から衝突した。
ほんの一瞬。瞬きほどの短い時間。
だが、確信した。
暁臣の瞳には、一切の迷いも、焦りもない。
そこにあるのは、獰猛なまでの『無華』の娘に対する独占欲と所有欲。
他者の介在を一切許さぬ、剥き出しの支配。
——これは、俺のものだ。
——お前には、指一本、触れさせない。
無言の圧力が、そう告げていた。
恒一は弾かれたように背を向け、その場を立ち去る。
これ以上、あの光景を視界に入れていられなかった。
胸の奥が、沸騰した鍋のように熱い。呼吸が浅く、荒れる。
早足で歩きながら、自分の頬が異様な熱を帯びているのを、はっきりと自覚していた。
「……殿下?どうかなさいましたか?」
屋内の控室へ向かう途中、婚約者の綾乃が心配そうに駆け寄ってくる。
「お顔が……少し、お赤いようですが。気分でもお悪いのでは……」
——触れるな。
「……うるさい!寄るな!」
「痛っ……」
反射的に、どす黒い感情が言葉となって爆発した。
伸ばされた手を、乱暴に振り払う。
綾乃が短く悲鳴を上げ、息を呑む気配がした。
はっとして足を止めるが、すでに遅い。
彼女の瞳には、見たこともない恒一の豹変に、深い動揺と怯えが浮かんでいた。
「……すまない。少し、のぼせたようだ。風に当たってくる」
それだけを吐き捨て、追い縋る視線を振り切るように歩みを早める。
胸の奥で、経験したことのない得体の知れない感情が、渦を巻き、荒れ狂っていた。
単なる怒りではない。
嫉妬や敗北感——そんな生易しい言葉で片付けられるものでもない。
もっと粘ついて、身体の深部に根を張るような、執拗な衝動。
僅かばかり見えた、あの娘が、暁臣の腕の中で見せた、あの蕩けるような表情。
上気した頬。
羞恥に伏せられた睫毛。
洩れ出した、甘く、切実な吐息。
——ほしい。
——奪いたい。
奪わずに、いられない。
唐突に心底から湧き上がったその欲望に気づき、恒一は戦慄した。
完璧な婚約者であるはずの綾乃にすら、一度として抱いたことのない渇望。
理解できない。いや、理解したくない。
ただ、暁臣に触れられたあの肌を、あの声を、あの表情を——
すべて、自分のためだけに塗り替えたい。
その焦燥が、内側から彼を焼き尽くそうとしていた。
白い振袖を贈るなど、その程度の『形』では足りない。
配置をいじることも、制度を弄ぶことも、今のこの飢えを満たすには、あまりに手ぬるい。
「あれを……私の隣へ、引き摺り下ろさなければならない」
爪が食い込むほど、拳を強く握りしめる。
園遊会の華やかな喧騒は、もはや遠い異国の音にしか聞こえない。
脳裏には、藤の花の紫と、あの娘の熱っぽい吐息だけが、消えない残像となって焼き付いて離れなかった。
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