第十話 隣で過ごした一年②
肌を刺すような、粘りつく視線を感じる。
背中に絡みつくそれは、熱を持った糸みたいに離れない。
あの男——恒一が、すぐ近くまで迫り、この束の間の平穏を侵そうとしている。
そう確信できてしまうほど、気配が近かった。
「すみれ。少し、奥へ行こうか。人混みに疲れただろう」
「はい……。暁臣様」
あらかたの社交を済ませると、すみれを伴い、喧騒が遠のく庭園の深部へと歩を進める。
足音が柔らかい芝に吸われ、人の気配が一つ、また一つと消えていく。
そして、完全に静けさへと踏み込んだその先——視界を埋め尽くしたのは、天から降り注ぐ紫の滝。
満開の藤の花。
「わぁ……っ」
「去年の園遊会では、まだ満開には早かったからな……この光景を、どうしても見せたかった」
「すごいです……。まるで、夢の中にいるみたい……」
風に揺れる紫の房が、すみれの虹彩色の瞳をより一層神秘的に、美しく輝かせる。
花を見上げる横顔は、息を詰めるほど儚く、細い輪郭が光に溶けそうだ。
陽光に透ける肌の白さは、この世のものとは思えないほど清廉で、胸の奥に、言いようのない焦燥が走る。
——触れなければ、失ってしまう。
そんな衝動が、静かに、だが確実に膨らんでいく。
「……そうしていると、まるで藤の精のように見えてくる」
「え……?」
「こうして、強く捕まえておかなければ……風に溶けて、どこかへ消えてしまうのではないかと……怖くなる」
彼女の柔らかな頬に、そっと手を添えた。
すみれは拒むことなく、むしろ縋るように目を閉じ、俺の手の上に小さな手を重ねてくる。
その温度が、静かに伝わってくる。
華奢な身体を引き寄せると、彼女は一瞬だけ息を迷わせ、それからすべてを委ねるように、俺の胸へと身を預けた。
抑えきれない衝動。
呼吸が近づき、鼓動が重なると、彼女の顎を、指先でそっと掬い上げる。
潤んだ瞳が、不安と期待のあいだで、細かく揺れていた。
「暁臣様……私を、ずっと……おそばに……」
言いかけた唇を、逃がさぬよう深く塞ぐ。
藤の香りと、彼女の甘い体温が混ざり合い、理性の輪郭が溶けていく。
世界が、ここだけに縮まったみたいだった。
離したくない。
一分一秒たりとも、この温もりを、誰にも渡したくない。
「……ん、っ……」
わずかに漏れた吐息すら愛おしく、それを逃がすまいと、さらに深く唇を重ねる。
貪るほどに、しかし壊さぬよう、力を抑えて。
すみれの頬は上気し、薄紅色に染まっている。
俺の袖を掴む指先が、小刻みに震え、その震えが、はっきりと伝わってくる。
その感触を脳裏に刻みつけながら、俺は視線を、すみれの背後——木々の影へと向けた。
姿は見えない。
だが、そこには隠しきれない『黄薔薇』の、傲慢で澱んだ気配が、確実に漂っている。
見ろ。
お前が、どれほど望もうと、決して手に入らないものが、ここにある。
すみれが漏らす甘い吐息も、羞恥に震える仕草も、熱を帯びた身体も、その心も——
すべては、俺だけのものだ。
誰にも、指一本触れさせない。
彼女が、その魂までを委ねるのは、世界でただ一人、俺だけだ。
逃げられぬよう、柔らかな背に腕を回し、刻印を残すつもりで、抱き寄せる力を強める。
「……は……っ、あ……。暁臣、様……」
上気した瞳が、俺だけを映して潤んでいる。
高鳴る鼓動が重なり、彼女の体温が、俺の体温を溶かしていく。
壊さぬように。けれど、決して逃がさぬように。
俺は、強く、強く、彼女を抱きしめた。
藤棚の奥で、花房が触れ合うかすかな音がした。
紫の影が二人を包み、外界のざわめきは、もう届かない。
胸の奥に残る不安さえ、今は抱き込んで、離さないと決める。
この腕の中だけが、真実だ。
俺以外の誰にも、この姿を見せてやるものか。
たとえ、この世のすべてを敵に回しても。
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