第九話 東宮御所からの使者①
「すみれ様に、東宮御所から使者がいらしています」
「え……?」
春の園遊会を一週間後に控えた、穏やかな昼下がり。
あまりに突然の来訪に、縋るような思いで隣の暁臣様を見上げた。
何かを察したのか、暁臣様の整った表情が、一瞬で氷のように険しくなる。
その変化だけで、胸の奥にざわりと嫌な予感が広がっていった。
——ひょっとして。
先日、簪をお返ししたことでお叱りを受けるのではないか。
私が叱られるだけなら、まだいい。
けれど、もし私のせいで暁臣様にまで不敬の火の粉が及ぶのだとしたら……。
「心配するな。一緒に行こう」
「……はい……」
不安を吸い取るように差し伸べられた温かな手。
私はその掌の温もりだけを頼りに、重い足取りで応接室へ向かった。
扉が開かれると、そこにいたのは、東宮の紋章をつけた使者。
そして、テーブルの上に並べられた——大小さまざまな桐の箱が、いくつも。
すべての蓋に刻まれた金色の家紋が、眩いほどに光を放っている。
簪を受け取ってしまった後、藤波様から教わった。
箱にある家紋は、天皇家を象徴する『十六葉八重表菊』。
「東宮殿下より、すみれ様に。お届けに参りました」
使者が事務的な声で告げ、恭しく紐を解く。
蓋が持ち上がり、箱の中から現れたのは——眩いばかりの、真っ白な振袖だった。
「……っ」
言葉を失う。
極上の正絹に、これでもかと繊細な刺繍が施された、白無垢と見紛うほどの純白。
それでいて、淡い光を抱いた刺繍が細やかに走り、品の良い気配だけが立ち上る。
次々に開けられる箱。
豪華な帯、帯締め、足袋、草履——支度に必要なものすべてが揃えられていた。
これが単なる『贈り物』ではないことくらい、世間知らずの私にも分かる。
拒めないように整えられた一式。
それは祝意という形を借りた、絶対的な意思表示——支配の輪郭そのものだった。
「東宮殿下は、なんと仰っている」
暁臣様の冷徹な声が、室内の温度を数度下げた。
その低い響きが、この贈り物の不吉さを、はっきりと告げている。
「来週の園遊会では、ぜひこちらをお召しになられるように——との言付けにございます」
園遊会。
頭の中が真っ白になった。
園遊会では、暁臣様が私のために初めて選んでくださった、あの振袖を着ると決めていたのに。
花菱屋さんにお願いして、仕立ててくださった、薄紫の——私にとって特別な一着を。
「よろしければ、当日のお支度もこちらから手配いたしますが」
「あ、あの……こんな、身に余るお品……いただくわけには参りません」
「東宮殿下からの直接の贈り物です。辞退など、決してあってはならないことかと」
「で、ですが……園遊会で着るものは、もう……用意してございますので……」
困る。
本当に、困る。
私が着たいのは、白ではない。
何も持たなかった私に、初めて与えられた『思い出の着物』。
暁臣様の気持ちが縫い込まれた、あの一着。
どうしたらいいのか分からず、視界が滲む。
俯くなと言われているのに、これ以上言葉を紡げない。
この方の向こうに、東宮殿下がイルカと思うと、固く目を閉じて、震えることしかできない。
「園遊会での着用は、できかねる」
暁臣様の断固とした声が、使者の言葉を遮った。
「しかし……殿下直々のご指定にございます」
「後日、五条家より丁重なお礼状と共に、賜った品はすべて御所へお納めする。——今のすみれに、これほどの重責を負わせるわけにはいかない」
暁臣様の大きな手が、私の固く握りしめた拳を包み込む。
その温もりで、やっと息ができた。
「園遊会には白ではなく、すみれに一番似合う色で、俺の隣に立たせる」
さっきまでの刃のような冷たさとは違う。
いつもの、優しい響き。
「それに——彼女に純白を着せるのは、秋まで大切にとっておきたい」
秋。
暁臣様と一緒に選んだ、白無垢を纏う季節。
不安の闇に、僅かな光が差し込むような心地がして、ようやく顔を上げられた。
「……すみれ様も、五条殿下と同じご意見でしょうか?」
使者の鋭い視線が私を射抜く。
大丈夫。言える。
私は大きく息を吸い込み、逃げ出したくなる気持ちを押し込めて、まっすぐ前を見た。
「……はい。私も、暁臣様のお考えと同じでございます」
掠れた声で、精一杯絞り出した一言。
けれどそれは、紛れもなく私自身の心からの願い。
東宮殿下からの贈り物を拒むことが、どれほど恐ろしいことなのか——私には想像もつかない。
それでも私は、暁臣様からいただいた想いを、この身に纏いたい。
使者を乗せた車が玄関先から遠ざかっていく。
新緑が眩しい並木道。
車の影が消えるまで、私は暁臣様の隣で、深く、深く頭を下げ続けた。
——どうしよう。園遊会が、怖い。
日差しはこんなにも暖かいのに、指先だけが悴むほどに冷たい。
そっと握られた暁臣様の掌の温もりだけを頼りに、新しい嵐の予感に震えていた。
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