第八話 百合の物語②
「……殿下。あの娘の話は、果たして真実だとお考えですか?他者の『異能』を奪い去るなど——俄かには信じがたい怪説かと」
「嘘も交えているだろうが、その核心に関しては、おそらく事実だろうね」
静まり返った室内で、側近の問いに、恒一は短く答えた。
百合を帰した後の空気は、まるで水底のように重く澱んでいる。
そうでなければ、これまでのすべてが説明できない。
『無華』と蔑まれてきたあの娘の前では、あらゆる『異能』が牙を抜かれる。
触れればすべてを塵芥に変えるはずの暁臣の『黒薔薇』が、彼女に対してのみ沈黙する理由。
そして、百合の証言が事実ならば——
あの娘は、触れることで『異能』そのものを『無』へと還し、あるいは奪い去る可能性を秘めている。
先日の茶会で、暁臣がごく自然に、素手ですみれの手を取っていた光景が脳裏をよぎる。
恐らく、単に触れるだけではない、何か決定的な条件が存在するはずだ。
だが逆に言えば、その条件さえ解明できれば——
暁臣から、あの忌々しい『黒薔薇』を剥ぎ取り、ただの無力な男に堕とすことができる。
「……あの『無華』の娘を、どうしても手元に置きたくなってしまうな」
「……左様でございますか。して、先ほどの百合様はいかがいたしましょう」
低く呟いた恒一の言葉に、側近は一瞬だけ沈黙し、慎重に続けた。
百合——?
一瞬、誰のことか分からず、恒一は眉を寄せた。
すぐに思い至り、興味を失ったように息を吐く。
「ああ。あの娘の妹か」
その声音には、すでに何の感情も残っていなかった。
「あれはもう不要だ。毒にも薬にもならない。適当に理由をつけて、その辺に捨て置いて構わないよ」
つい先ほどまで涙を流し、必死に媚を売っていた女の顔は、
すでに記憶の淵で曖昧に溶けている。
恒一の関心は、すみれという特異点にしか向いていなかった。
前回の茶会で見せた、暁臣の過剰な警戒。
あの様子では、今後どれほど招いた所で、暁臣の邸からあの娘を出すことはないだろう。
だが——春の園遊会がある。
すべての皇族、宮家、国を動かす官僚が一堂に会する、逃げ場のない公式行事。
『無華』として育ったあの娘は、何を見て、何を与えれば心を揺らすのか。
そして、唯一の誇りである『黒薔薇』の力までも奪われたとき、あの傲慢な暁臣は、どんな絶望の表情を晒すのだろう。
ふと、婚約者・綾乃の姿が脳裏をかすめる。
確か、園遊会で纏う予定の着物は、己の華である『牡丹』の色に合わせた、燃えるような深紅だったはずだ。
「暁臣家が贔屓にしている呉服店は……花菱屋、だったね」
正妻となるべき、正統な血筋と誇りを持つ綾乃。
そして今は暁臣の女でありながら、いずれ自分の手に堕ちる『無華』の娘。
赤と白。
対極の美を、自らの左右に並べて侍らせる光景を思い描き、恒一は微かに口角を上げた。
「白い振袖を誂えて、すみれに贈ろうか……彼女には白無垢を着せてやることはできないからね。せめてもの慈悲だ」
白無垢は、正妃である綾乃だけに許された特権。
だが、混じり気のない『白』こそが、あの幸薄い娘にはよく似合うだろう。
数度言葉を交わした印象からも、あの娘は感情を表に出す質ではない。
調査報告書を鑑みれば、従順で、扱いやすい性格であることは明白だった。
側室として、あるいは、秘密の愛妾として。
実に都合が良く、美しい道具。
「園遊会が楽しみだ……どのような趣向でもてなしてあげようか」
暁臣は、あの娘に何を与えているというのだろう。
あの男にできて、東宮である自分にできぬことなど、この世に存在しない。
両者の差など、所詮は『黒薔薇』か『黄薔薇』か——
天から与えられた色の違いに過ぎない。
望むものを与え、望むままに支配すれば、あの娘もやがて満足し、自ら跪くだろう。
「引き続き、調査を続けろ。あの娘が暁臣の前で見せる『綻び』の瞬間を、一つも見逃すな」
『黒薔薇』という理不尽な破壊の象徴さえ消し去ることができれば、もはやこの世に、東宮である自分に抗える『異能』は存在しない。
そのための鍵。
そのための『無華』。
自分以上に、あの娘を所有するに相応しい存在など、この世にいるはずがない。
恒一はそう確信し、冷え切った笑みを浮かべながら、
遠く迫る園遊会という名の狂乱に、静かに想いを馳せた。
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