第八話 百合の物語①
数日後。
朝霞伯爵家に再び届いた招状は、前回とは別の場所を指定していた。
東宮御所にほど近い、静かな並木道に佇む別邸——
案内された応接間は、先日案内された部屋よりもなお静謐で、焚かれた香の匂いが淡く、それでいて肌にまとわりつくような重い空気が漂っている。
前回と同じ、氷のように無機質な侍従が百合を迎え入れた。
「本日も、足をお運びいただき恐れ入ります」
「いえ……当然のことでございますわ」
百合は今日こそ、と胸を躍らせていた。
ここまで完璧に整えられた舞台装置——あの方が現れないはずがない。
侍従は前回の記録をなぞるように、短く、けれど核心を突く問いを投げた。
「一点、補足を。あなたの『異能』が消え失せた際、朝霞すみれは何か言葉を発しましたか」
「……いいえ、何も。姉はいつもそうですの。何も言わず、ただ不気味に黙っているだけ……だからこそ余計に卑怯で、恐ろしいのですわ」
その瞬間、厚い絨毯の向こう側で、微かな足音が止まった。
応接間の空気が一段階、密度を増す。
侍従が即座に立ち上がり、直角に近い角度で深く頭を下げた。
「——殿下」
百合の心臓が、喉元まで飛び出すほどに跳ねた。
静かに開かれた扉の向こうから現れた男は——想像していたよりもずっと、静止画のように美しかった。
すらりと高い背丈に、寸分の乱れもなく馴染んだ深い紺のスーツ。
額にかかる長めの前髪の奥から覗く切れ長の瞳。
口元には春の陽だまりのような柔和な微笑みが湛えられている。
なのに百合は、金縛りに遭ったように息が詰まった。
美しすぎる猛獣を目の当たりにしたときのような、逃げ場のない圧迫感。
「……朝霞百合、だったね」
鼓膜を震わせる、甘く低い声音。
名前を呼ばれただけで百合の全身に熱が駆け巡り、膝の震えを隠すため、彼女は必死で袖を握りしめた。
「は、はい……っ。百合でございます……お目にかかれて、光栄に存じます……」
「来てくれて助かったよ。君の協力が必要だったんだ」
その響きだけで、自分は『選ばれた』のだと百合は確信した。
瞳から大粒の涙が零れ落ちる。今度は演技など必要なかった。
歓喜と興奮が、勝手に涙となって溢れ出したのだ。
「殿下……わたくし……っ。姉に、すべてを奪われましたの……!本当は……わたくしが、あの場所にいるはずだったのです……!」
恒一は、その醜い叫びに驚く素振りも見せない。
ただ痛ましそうにわずかに眉を寄せ、完璧な分量の同情を、その表情に浮かべてみせた。
「そうか。それは辛い思いをしたね……よく、今日まで耐えてきた」
たったそれだけの言葉。
けれど百合の世界は、劇的な反転を遂げた。
ようやく理解された。
私は救われ、正当に報われるのだと。
「……姉のその不思議な力について、もう少し詳しく教えてもらえるかな」
「もちろんですわ……っ。殿下のためでしたら、わたくし、何でもお話しいたします……!」
恒一は微笑んだ。慈愛に満ちた優しい笑み。
けれど瞳の奥は一筋の光も通さぬほど冷ややかに、ただ対象を観察している。
「助かるよ。——君の話には、計り知れない価値がある」
価値。
その言葉に百合は陶酔した。『無華』の出来損ないの姉ではない。
この自分に、この国で最も貴いお方が価値を見出してくださったのだ。
恒一はゆったりと椅子に腰を下ろし、一分の隙もない穏やかな静けさで問いを重ねた。
「……君が言った、触れている間、『異能』が消えるという点だが……それは、五条暁臣のあの破壊の力も、同じように消し去ると思うかな?」
百合は息を呑んだ。
殿下が、あの自分を選ばなかった男のことを——姉のことを、尋ねている。
——いける。これで、あの二人を引き離せる。
「消えますわ。間違いございません」
百合は確信に満ちたふりをして、断言した。
「姉のあの忌まわしい肌に触れさせれば、どんな『異能』でも……たとえ『王華』の力であっても、きっと消えてしまいますわ」
「……なるほど。それは、興味深いね」
恒一の瞳が、獲物を定めた蛇のように、ほんの僅かに細くなる。
——それだけで、彼は十分だった。
去り際、恒一は百合の耳元へ、甘い毒を流し込むように囁いた。
「今日のことは、私と君だけの秘密だよ……君の身を守るために、ね。いいかい?」
守る。
百合は熱烈な多幸感に浸りながら、何度も力強く頷いた。
姉ではなく、自分こそがついにこの方に守られる側の主役に返り咲いたのだと、露ほども疑わずに。
「はい……殿下……。わたくし、誰にも……」
重厚な扉が閉まった後、百合は自分の指先が脈打つほど熱くなっていることに気づいた。
ようやく、自分の真実の人生が始まった。
目の前が開けていく。
二度とここに立ち入れることはない——
そんな結末が待ち受けていることなど、彼女の頭には微塵もなかった。
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