第七話 与えられた救い
雪の名残が庭の隅々に白く残る朝、朝霞伯爵家に一通の重厚な書状が届けられた。
朝食の席でその封蝋の色彩を目にした瞬間、妹の百合は喉を鳴らして息を呑む。
高貴なる紫の蝋に刻印された、皇族の——それも東宮方の印。
「……え?私に……東宮殿下から?」
女中が恐る恐る差し出したそれを、百合はひったくるような勢いで受け取った。
指先が歓喜に震え、胸の奥にどろりとした熱が広がる。
屈辱に歪んでいたはずの唇が、いまは勝利を確信した笑みを作ろうとしていた。
来た。ようやく、私の番が。
五条暁臣の婚約者候補として、社交界で我が世の春を謳歌していたとき期があった。
だが結果は惨敗。
あの『無華』で、蔵の鼠のように生きてきた、何も持たないはずの姉——すみれに、すべてを奪われた。
その憎悪は日ごとに増し、百合の心をじわじわと真っ黒に染め上げてきたのだ。
けれど、神は見捨ててはいなかった。
今度の相手は、宮家を凌ぐ東宮。
この国で、これ以上ない最高位に君臨する男。
「……やっと、来たわ……!」
百合は食事もそこそこに鏡台の前へ駆け込むと、入念に髪を整え、肌を磨き上げた。
頬の色、唇の艶、瞳の潤み方。
鏡に向かって、何度も『可憐な涙』を零す練習を繰り返す。
虐げられた悲劇のヒロインには、真珠のような涙こそがふさわしい。
そう信じて疑わなかった。
泣けないなら、泣ける顔を作ればいい——それで世界は味方をする。
指定された面会場所は、華やかな東宮御所ではなかった。
宮内省の一角にある、歴史だけは古いが、どこか事務的な空気が漂う応接間。
百合は一瞬、その殺風景さに肩透かしを食らいながらも、すぐに気を取り直して胸を張り、淑女らしく着座した。
——大丈夫。これは単なる前段に過ぎない。
殿下のような尊いお方は、後から劇的に現れるものなのだから。
向かいに座ったのは、三十代半ばほどの怜悧な顔立ちの男だった。
髪は一分の隙もなく撫でつけられ、官吏の制服は皺一つない。
丁寧な物腰ではあるが、その瞳には凍てつくような冷徹さが宿っている。
その調べる目は優しさの欠片もない、紙と事実だけを見る目だ。
「朝霞百合様。お忙しい中、足を運んでいただき感謝いたします」
「いえ……。殿下のお役に立てる機会をいただけるのでしたら、この百合、どこへでも参りますわ」
男は表情を変えずに一礼し、手元の書類を無造作に開いた。
紙をめくる音が、やけに乾いて響く。
「本日は、一昨年の年末からの事実関係について、いくつか確認させていただきたいことがございます」
「……はい。何なりとお聞きになってくださいまし」
百合は即座に声音の調子を変えた。
弱々しく、今にも消え入りそうなほどに。
己がいかに不当に傷つけられ、愛を奪われたか。聞き手の同情に訴えかけるための、計算し尽くされた声。
「わたくし……ずっと、五条様の『双蕊』になれると信じておりましたの……周囲の皆様も、そう仰ってくださっていましたわ」
男は機械的にペンを走らせるだけで、眉一つ動かさない。
「五条暁臣殿下との具体的な面識については?」
「……ええ、もちろんございますわ。一昨年の年末に朝霞の邸にも足を運んでいただき、父を交えての会食も……婚約者候補として名が挙がっていたのは、確かな事実でございます」
「然るに、候補から外れた理由は」
「それは……姉が、卑怯な手で奪ったからですわ」
言い切った瞬間、百合は自分の涙の顔が上手く作れているかを、相手の瞳に映る影で確かめる。
同情。怒り。憐れみ。——どれでもいい。
ここでほしいのは、味方だ。
芝居がかったその言葉に、自分自身の胸が高鳴るのを感じる。
『奪われた』と言えば、他人は食いつく。
貴族社会の誰もが、嫉妬と憎悪に塗れた姉妹の確執という物語を好むのだから。
——私は、その物語の主人公になればいい。
「奪ったというのは、具体的にどのような手段を」
「姉は……あの方は『無華』でございますの。何一つ持たぬ身でありながら、昔から、妙に……」
百合はそこで言葉を切り、わざとらしく唇を噛んで俯いた。
言い淀めば、恐ろしくて言えないが成立する。
その隙間に、相手が勝手に怖い想像を詰め込むのだ。
男の視線が、初めてわずかに上がり、百合を捉えた。
「妙に、とは?」
「……わたくしの持つ『異能』を、呪うような目つきで見つめておりましたの……ずっと、昔から」
「それは、いつ頃のことです」
「幼い頃ですわ。わたくしが誇り高き『赤薔薇』の加護を授かり、火の『異能』を発現させたばかりの頃……。姉の嫉妬は、あの日から始まったのです」
百合は、自分を清廉な被害者に仕立て上げるための言葉を、慎重に選んで紡ぐ。
誇り高き嫉妬を呪うような目。
誰が聞いても、姉が卑しく見えるように。
「昨年の園遊会後も、わたくしたちは五条様のお邸にご招待を受けましたの。その席でも、姉は五条様をわたくしに奪われると逆上し……正気を失ったように襲いかかってきましたわ」
何度も頭の中で書き換えてきた偽りの記憶。
驚くほど容易く、目尻から涙が零れ落ちる。
百合は身を乗り出し、秘密を共有するように声を潜めた。
ここだ。ここで『怖さ』を足せば、同情は勝手に膨らむ。
「身を守るために、わたくしは『異能』を使いましたの……でも、姉は焼けなかった。それどころか、わたくしの火を……」
男のペンが止まった。
静寂が室内に満ちる。
百合はその沈黙を、『効いた』と受け取って喉の奥を甘く鳴らす。
彼は淡々とした口調で問いを重ねた。
「それ以降、あなたの『異能』そのものが失われた、と」
「はい……!消えてしまったのです。まるで、最初から存在しなかったみたいに……。姉は、わたくしの誇りを奪ったのですわ」
「……『異能』が消えた際、姉の身体に直接触れましたか?」
「ええ、触れて……組み合っておりましたわ……」
百合は確信した。
これこそが、東宮が求めている答えなのだと。
姉を憐れむ健気な自分。
理不尽に力を奪われた哀れな自分。
その姿こそが、高貴なる殿下の同情を引き、怒りを引き、そして『手』を差し伸べさせる。
「百合様。あなたは現在も、継続して通院していらっしゃいますね」
「はい。姉に『異能』を奪われてから……絶望のあまり心身を崩してしまいました……なんとかして、あの力を取り戻したくて……」
男が書類の頁をめくる。
百合は、不遇を耐え忍ぶ聖女のように、慎ましく微笑んで見せた。
男の目がわずかに細くなる。
——だが、その声の温度は変わらない。
「つまり、朝霞すみれには、他者の『異能』を奪い去る力があると。そう断言されるのですね」
「はい……わたくしの『異能』を奪い、今度は五条殿下を誘惑したのです……」
百合はそこで言葉を切り、満足げに息を吸った。
理由ができた。
自分が選ばれなかったのは、姉が禁忌の力で不当に奪ったからだ。
本来あるべき席へ、私を戻して——その台詞を、相手に言わせればいい。
男は静かに、そして重々しく書類を閉じた。
「本日は貴重なご証言をいただき、誠にありがとうございました」
「……え、もう終わりですの……?」
あまりに早すぎる。
殿下は。東宮殿下は現れないのか。
百合の露骨な焦りを見抜いたのか、男は立ち上がり際に、事務的な一言を添えた。
「精査の上、必要があれば、改めてこちらからお呼びいたします」
『改めて』。
その言葉の響きに、百合の胸は再び期待で熱くなった。
これは終わりなどではない。
あの忌々しい姉を破滅させ、自分が世界の中心に返り咲くための、華々しい幕開けなのだ。
——彼女を待ち受けているのが、さらなる深淵であることも知らず。
百合は揚々と応接間を後にした。
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