第五話 暁臣様の従兄弟②
「今日は、愛らしい婚約者殿は連れてこなかったのか?」
挨拶すら交わす前に、開口一番に放たれたのはその問いだった。
——『愛らしい』など。他人の婚約者に向かい、よくも。
東宮殿下。従兄弟であるはずの男の、真意の読めない微笑。
今年に入ってからすでに三回目。異常なほど頻度を増した呼び出し。
その狙いがどこにあるのか、もはや疑う余地もなかった。
「東宮殿下。お召しにより参上いたしました」
「堅苦しいな。二人きりの場だ、もっと楽にしてもかまわないよ」
感情を押し殺したまま淡々と頭を下げ、傍らに持つ桐箱を差し出した。
先日、すみれに贈られたあの簪だ。
「先日、すみれに賜ったこちらですが……分不相応な品ゆえ、ここにお返しいたします」
「……おや。それは私が『彼女』に贈ったものだ。君に返される筋合いはないのだが?」
よくもぬけぬけと、そんな言葉を。
眉間に、隠しようのない不快感が刻まれる。
「簪を贈る行ためが、この社交界で何を意味するか。東宮殿下が理解されていないはずがないでしょう」
「さあ、どうだったかな。単に、彼女の髪に似合うと思っただけだよ」
「……ふざけるな」
簪を贈る。
それは古来より、男性が心に決めた女性へ贈る求愛の証。
それを自身も東宮妃となる婚約者がいる身でありながら、他人の——しかも身内の婚約者に贈るなど。
不特定多数の目に触れれば、あらぬ憶測を呼び、すみれの立場を危うくする。
卑劣な行ために他ならない。
「おっと、素が出ているぞ。暁臣」
「誤魔化すな……すみれは俺の婚約者だ。他人が、ましてや東宮殿下が指をかけていい存在ではない」
「だから何だと言うんだ?私は東宮だ。いずれこの国のすべてを統べる者。対してお前は、所詮数ある宮家の一つに過ぎない」
これだから、この男は嫌なんだ。
顎をわずかに上げ、慈悲深い神のごとく見下ろしてくるその瞳。
自分が間違っている可能性など微塵も考えず、拒絶されることなど想定すらしていない。
立場を誇りに思う千鶴のような純粋な傲慢さとは違う。
自らの権力が何をもたらし、どう相手を屈服させるかを冷徹に理解した上での、あまりに無邪気な暴虐。
笑顔のまま、息を止めさせてくる。
「……すみれを望む、と仰るのですか?綾乃殿という婚約者がいながら」
「綾乃は正妃だ。内大臣の娘である彼女の座を揺るがすつもりはない。だが、それですみれを排する理由にはならないだろう?」
そもそも、なぜすみれにそこまで固執する。
彼女は確かに伯爵家の娘だが、家格で見れば東宮の側室としてさえ、本来は相応しくないはずだ。
「至高の地位にある私が、彼女に居場所を与えてやろうと言っているんだ。喜ばぬ者はいないだろう?お前も、彼女の幸福を願うなら、そう思わないか?」
「……勝手なことを抜かすな」
すみれを側室、あるいは日陰の愛妾にでもするつもりか。
あの暗く湿った蔵から、やっと陽の当たる場所で芽吹き始めたというのに。
最悪の想像が脳裏をよぎり、奥歯がきしむ。
もしこの男が東宮の権限を乱用し、制度をもって強引にすみれを奪おうとしたら——。
今の俺に、どこまで彼女を守り抜ける。
呼び出しという名目で引き離し続け、既成事実を捏造される可能性すらあるのだ。
そう思うだけで血が冷える。
「……何が目的だ。彼女の何に魅かれている」
「おや。私がすみれを愛らしいと言った言葉に、嘘はないよ」
「まだ言うかっ」
「あとはそうだな。彼女の持つ能力に非常に興味がある。あれは私にこそ相応しい」
「なっ……!?」
すみれの『無華』という特性。
その実、すみれ固有の『異能』を無害化する異質な力であること。
その事実を知る者は、厳重に管理されたごく一部の人間のみに限定していたはずだ。
一体、どこから情報が漏れた。
「……以降、こういった無礼な贈り物は不要です。彼女には俺が最高のものを与える」
「それはすみれ自身が決めることだ……違うかな?」
「その言い草は、彼女に選択肢を与えていないように聞こえるが」
「気のせいだよ……ああ、春の園遊会で会えるのを楽しみにしている」
今日の場は、すみれが体調を崩したとして欠席させた。
だが、園遊会は陛下も父上も出席される公の場。
よほどの事態でない限り、彼女を欠席させることは難しくなる。
逃げ場の少なさが、腹の底を冷たく撫でていく。
「東宮殿下。本日の要件は済みましたので、失礼させていただきます」
これ以上の対話は無意味だ。
足早に車へと乗り込む。
自宅へと向かう車中、窓の外を流れる雪景色を見つめながら、拳を固める。
東宮のあの歪んだ思想。
間違いなく、次の手を打ってくるはずだ。
すみれが邸で待っていることは分かっている。
それでも、一刻も早く彼女の顔を見て、その無事をこの手で確かめたいという焦燥が、胸を激しくかき乱した。
——今この瞬間にも、誰かの視線が彼女に伸びている気がして。
「お帰りなさいませ、暁臣様」
玄関を入るなり耳に届いたのは、外の酷寒を忘れさせてくれるような、陽だまりのごとく温かなすみれの声。
コートを脱ぐ間も惜しく、彼女を抱き寄せ、その細い肩に頭を預けた。
花のように甘い匂いがして、ようやく肺に空気が戻る。
「早かったのですね……お昼、何か召し上がりますか?」
「……そうだな。その前に、少し部屋でゆっくりしよう」
「……はい」
わずかに躊躇う声と、桃色に染まる頬。
けれど、彼女は決して嫌がってはいない。
最近は俺の言葉や視線の意味を理解し始めたのか、そのはにかむ表情には、抗いがたい艶が混ざるようになってきている。
この愛おしい表情を、あの男に見せるなど、不快でならない。
いっそこのまま、彼女のすべてを奪って、誰の手も届かない場所へ隠してしまいたい——。
そんな衝動が湧き上がる。
だが、今ここで無理に既成事実を作ることは、東宮に攻撃の隙を与えることになりかねない。
俺が逸れば、すみれが矢面に立たされる。
秋……婚儀を、いっそ早めることはできないだろうか。
張り巡らされた権力という名の罠に抗うように、すみれの手を強く引き、自らの部屋へと招き入れた。
そして扉を閉めると同時に、彼女を腕の中に閉じ込める。
胸の鼓動が速い。すみれの体温が、そこだけを世界の中心に変えていく。
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