第五話 暁臣様の従兄弟①
暁臣様のお部屋に招き入れられると、促されるままにソファへ腰を下ろす。
膝の上には、先ほど賜ったばかりの桐箱。
その重みが、まるで冷たい石のように私を縛り付けている。
抱えた腕の内側まで冷えていく気がして、指先が無意識に箱の角をなぞった。
「……開けてみるか」
「はい……」
暁臣様の許可を待たなければ、この箱に触れてはいけない。
それが当たり前の礼儀のはずなのに、今は別の意味に思えてくる。
まるで、中身が何かわかってしまっている玉手箱のようだ。
開けた瞬間、戻れなくなる——そんな本能的な畏怖が、指先を強張らせる。
私は震える手で、そっと桐箱の蓋を持ち上げた。
中に納められていたのは——深い、深い紫がかった黒の簪だった。
一見して派手さはない。
煌びやかな宝石が散りばめられているわけでもない。
けれど、その黒い軸には、目を見張るほど細やかな彫りが施されている。
光の加減によって、そこに高貴な菊の文様が密やかに浮かび上がる仕様。
静かで、強い。触れたら指先が切れそうなほど、鋭い気品がある。
「……簪……?」
私が小さく呟いた瞬間、暁臣様の双眸が、射抜くような鋭さを帯びた。
「それだけか。他には何も入っていないのか」
「はい……。あの、暁臣様。この簪には、何か……特別な意味があるのでしょうか」
「ある」
即答だった。
暁臣様は、運ばれてきたカップの珈琲に口をつけることさえせず、ただその簪を凝視している。
眉間の奥が固く、空気が少しだけ重くなる。
「だが、受け取ったことが即座に『応え』になるわけではない」
「……応え、ですか?」
「東宮はその程度の言葉遊びは熟知している……ただし、だ」
その言葉に、ほんの少しだけ胸のつかえが降りるのを感じた。
けれど同時に、背筋をひやりとした冷気が通り抜ける。
暁臣様は、私の手元から奪い取るように簪を、箱ごと取り上げた。
指が触れた瞬間、黒が一層深く見えた気がして、息が止まる。
「これは、絶対に髪に挿すな」
「……え?」
「理由は聞かなくていい。すみれがこれに触れる必要もない」
長い指先で簪をしまいながら、暁臣様は苦虫を噛み潰したように目を伏せた。
言い切る声が硬い。——優しさの形をした、命令。
「婚約者として贈るにはあまりに控えめだが、個人的な好意を示すには十分すぎる品だ……その境界を、あえて狙ってきている」
「好意……?東宮殿下が、私にですか……?」
そんなこと、あるはずがない。
私には『華』もなく、身分も低く、何より殿下には綾乃様という、これ以上ないお妃候補がいらっしゃるのに。
なのに、胸の奥が嫌なふうにざわめく。否定したいのに、否定できない怖さが残る。
「だから、あの男は嫌いなんだ」
暁臣様の声には、隠そうともしない、はっきりとした嫌悪が滲んでいた。
彼はふっと重苦しい吐息を吐き出すと、箱を机に置く。
桐が木目のまま静かに横たわっているだけなのに、部屋の中でそれだけが異物みたいだった。
「すみれ。お前は、この簪がほしいのか?」
「私は……」
この簪に込められた、高貴な方々特有の『意味』など、私には到底理解できない。
けれど、答えは最初から決まっていた。
迷う余地など、最初からなかった。
「私は……暁臣様からいただいたもので、十分です。それ以外は、何も……」
「……そうか……では、また今度二人で買いに行こう。すみれに似合うものを」
暁臣様の声が、わずかに和らいだ。
そこでようやく、私は自分が無意識のうちに簪を強請ってしまったことに気が付き、顔が赤くなった。
「あの、すみません!なんて図々しいことを……」
「構わない。すみれが身に着けるものは、今後もすべて俺が揃えよう……他の男の影など、一切必要ない」
独占欲の滲むその言葉に、私は吸い込まれるように頷いた。
胸の奥がくすぐったくて、でも恥ずかしくて、視線が泳ぐ。
そうされることが、私にとって何よりも嬉しく、当然のことだと思えたのだ。
『当然』だと思える自分が、少し怖いくらいに。
「……すみれ。今日は、怖くなかっただろうか」
ふいに投げかけられた問いに、私は言葉を詰まらせた。
怖くなかったか……と言われたら、贈り物の意味も、東宮殿下の真意すら、なにもかもがわからず、怖かった。
けれど——その怖さを、私は一人で抱え込まずにいられた。
「……少しだけ、圧倒されてしまいました。でも……」
「でも?」
「暁臣様が、ずっと隣にいてくださったので。それだけで、私は大丈夫でした」
「……そうか。それならいい」
暁臣様はそれ以上、何も言わなかった。
けれど、室内に漂う沈黙は、先ほどまでの刺々しいものから、ずっと穏やかで、親密な体温を感じるものへと変わっていた。
暖炉の熱が、ようやく胸の奥まで届く。
「次の茶会には、俺一人で行くことにする」
「え……っ」
冷水を浴びせられたような衝撃に、私は顔を上げた。
やはり、今日の私は粗相をしてしまったのだろうか。
お妃教育で教わったことを、あの場で失敗してしまったのではないか。
不安が波のように押し寄せる。
「そんな顔をするな……すみれのお披露目は、もう十分だということだ。これ以上、あの男に、お前を見せる必要はない」
「……はい……」
そう言われても、不安の種は消えない。
暁臣様の手元にある、金色に輝く花の紋章が刻まれた桐箱。
本来なら、最上の名誉であるはずのそれが、今の私には、開けてはいけない箱のように見えて仕方がなかった。
そしてその『開けてはいけない』が、簪よりもずっと鋭く、胸の内側に刺さり続けている。
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