第5話 転落の始まり
第5話 転落の始まり
なぜ上手くいかないのか。
その答えを知りたいと思ったことは、一度もなかった。
ジュリアン・フォン・ボロアは豪華な執務机に肘をつきながら、不機嫌そうに窓の外を眺めていた。
ボロア伯爵家の本邸は王都でも有数の豪邸だ。
大理石の暖炉。
金縁の鏡。
赤い絨毯。
高価な絵画。
子供の頃から、それらは当たり前にそこにあった。
だから彼は疑ったことがない。
自分は成功する人間だと。
自分は選ばれた人間だと。
そして、自分が失敗するはずがないと。
「ジュリアン様」
秘書のロイドが緊張した様子で声を掛ける。
「なんだ」
「東部商会から取引停止の通知が届いております」
ジュリアンは眉をひそめた。
「またか」
机の上には似たような手紙が積み上がっている。
取引縮小。
発注停止。
契約解除。
そんな言葉ばかりだった。
「理由は?」
「品質への不満とのことです」
「馬鹿馬鹿しい」
ジュリアンは鼻で笑う。
「たかが数件の不良品だろう」
「ですが、ここ最近苦情が増えておりまして……」
「職人どもの管理がなっていない」
ロイドは黙り込んだ。
本当にそうだろうか。
そう思ったが口には出せない。
言えば怒鳴られるからだ。
数か月前。
ジュリアンはエルザとの婚約を破棄した。
そしてボロア伯爵家が持つ商権を利用して大規模事業を始めた。
目標は単純だった。
大儲けすること。
そのために彼はコスト削減を命じた。
安い材料を使え。
検品工程を減らせ。
人員を削減しろ。
利益率を上げろ。
その結果、帳簿上の利益は確かに増えた。
最初の三か月は。
だが今は違う。
「それより売上は?」
「先月比で一五%減少です」
「何?」
ジュリアンが顔をしかめる。
「なぜだ」
「その……」
「答えろ」
ロイドは覚悟を決めた。
「顧客離れが進んでおります」
部屋の空気が冷える。
ジュリアンの顔色が変わった。
「顧客離れ?」
「品質への不信感が広がっているようです」
「くだらん」
机を叩く。
高価なインク瓶が揺れた。
「そんなもの宣伝でどうにでもなる」
ロイドは何も言えない。
実際にはどうにもなっていない。
市場では悪評が広がっていた。
だがジュリアンは認めない。
認めたくないのだ。
その夜。
伯爵邸の晩餐会にはマリアも参加していた。
豪華な料理が並んでいる。
仔牛のロースト。
白身魚の香草焼き。
高級ワイン。
果実のタルト。
だがジュリアンの機嫌は最悪だった。
「また苦情が来た」
ワインを飲み干しながら吐き捨てる。
マリアは肩をすくめた。
「お客様って本当にわがままよね」
「まったくだ」
「少しくらい不良品があったっていいじゃない」
「その通りだ」
二人は笑う。
だが給仕たちの表情は暗かった。
皆知っている。
少しくらいではない。
かなり増えている。
翌日。
ジュリアンは工場を視察した。
鉄の匂い。
油の匂い。
熱気。
作業音。
職人たちは緊張していた。
「誰が責任者だ」
ジュリアンが怒鳴る。
中年の工場長が前へ出た。
「私です」
「品質が落ちているそうだな」
「材料が変わりましたので」
「言い訳か?」
「いえ」
「なら改善しろ」
工場長は苦い顔をした。
「改善には予算が必要です」
「予算?」
ジュリアンは鼻で笑った。
「利益を増やすために削減したのだぞ」
「ですが現場では限界が――」
「限界なのはお前の能力だ」
工場長は唇を噛んだ。
それ以上何も言わない。
言っても無駄だからだ。
ジュリアンは満足そうに頷いた。
「次から結果を出せ」
そう言い残して去っていく。
その背中を見ながら職人たちは黙っていた。
やがて一人が小さく呟く。
「無理だろ」
「無理だな」
「材料を変えたのはあっちだ」
「検品を減らしたのもな」
ため息が広がる。
誰もやる気を失っていた。
そして数日後。
さらに悪い知らせが届いた。
「ジュリアン様!」
ロイドが青ざめた顔で飛び込んでくる。
「なんだ」
「大口顧客が契約を打ち切りました」
「は?」
「五年間続いた取引先です」
ジュリアンは立ち上がった。
「理由は!」
「品質への不信です」
「またか!」
怒鳴り声が屋敷中に響く。
机の上の書類を床へ叩き落とす。
「どうしてだ!」
その問いに答えられる者はいない。
いや、本当は皆分かっている。
だが本人だけが分かっていない。
夕方。
王都の市場を歩いていたジュリアンは偶然ある噂を耳にした。
「最近はディール家の商品ばかりだな」
「あれ便利だからな」
「品質もいい」
「値段も手頃だ」
エルザの名前だった。
ジュリアンの顔が歪む。
「またあいつか」
婚約破棄した没落令嬢。
もう終わったはずの女。
なのに市場では自分より評判が良い。
その事実が気に入らない。
「まぐれだ」
そう呟く。
「どうせ長続きしない」
だが胸の奥では別の感情が芽生えていた。
焦りだった。
認めたくない。
認めれば自分が間違っていたことになる。
だから彼は目を逸らす。
問題から。
現実から。
そして自分自身から。
その頃、ディール家の工房では職人たちが利用者の意見を聞きながら新商品の試作を進めていた。
誰が悪いかではなく、何を改善するか。
その違いはまだ小さい。
けれど確実に未来を分け始めていた。
ジュリアンはまだ気付いていない。
転落とは、崖から落ちる瞬間ではない。
現実から目を背けたその日から、静かに始まっているのだということに。
削りゆく 信頼の価値 顧みず
傲りの城に 響く破綻(足音)




