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第10話 未来を見る人

第10話 未来を見る人


 幸せになったのだと思う。


 けれど、その幸せは誰かを見返したからではなかった。


 誰かに勝ったからでもない。


 ただ毎日、自分が信じたことを積み重ねた結果だった。


 王国産業功績賞授賞式から一か月。


 王都には爽やかな初夏の風が吹いていた。


 クロイツ商会本店の最上階。


 大きな窓から陽光が差し込み、磨き上げられた机の上を照らしている。


 エルザは朝から資料と格闘していた。


「なるほど……」


 手元には分厚い報告書。


 隣国の人口推移。


 物流網。


 特産品。


 生活習慣。


 市場規模。


 数字と文字がびっしり並んでいる。


 普通なら頭が痛くなる資料だろう。


 だがエルザの目は輝いていた。


 新しい発見をする子供のように。


「お嬢様」


 リナがお茶を運んでくる。


 香り高い紅茶だった。


「ありがとうございます」


「また徹夜したでしょう」


「少しだけ」


「少しじゃありません」


 リナは呆れた顔をした。


 だが口元は笑っている。


 最近のエルザは本当に楽しそうだった。


 以前のように不安に押し潰されることもない。


 婚約破棄された頃とは別人のようだ。


「何を見ているのですか?」


「隣国の市場です」


「また新しいことを始めるのですか?」


「始めたいですね」


 エルザは窓の外を見つめた。


 王都の街並みが広がっている。


 人々が歩いている。


 馬車が行き交う。


 店が並ぶ。


 その一つ一つに生活がある。


 困り事がある。


 そして改善の余地がある。


「世の中って面白いですね」


 ぽつりと呟く。


 リナは微笑んだ。


「お嬢様らしいです」


 その時、扉が開いた。


「また市場調査ですか?」


 聞き慣れた声だった。


 ラインハルトである。


 今日は濃紺の上着に灰色のベストを合わせている。


 相変わらず絵になる男だった。


「おはようございます」


「おはようございます」


 彼は机の上の資料を見る。


 そして苦笑した。


「やっぱり」


「何がですか?」


「授賞式の後くらい休むかと思いました」


「休みましたよ」


「三日だけでしょう」


 エルザは黙った。


 図星だった。


 ラインハルトは椅子へ腰掛ける。


「それで?」


「はい?」


「次は何を企んでいるんです?」


 エルザは資料を広げた。


 地図が現れる。


 王国の隣にある商業国家。


 港湾都市。


 交易路。


 人口密集地帯。


「面白そうでしょう?」


 ラインハルトは思わず笑った。


 普通の人間なら財産を得たら満足する。


 地位を得たら休む。


 だが彼女は違う。


 さらに先を見ている。


「次は世界を相手にするのか?」


 その問いにエルザは迷わなかった。


「もちろんです」


 即答だった。


 目が輝いている。


 あの日。


 婚約破棄された夜と同じ目だ。


 違うのは絶望ではなく希望を見ていることだった。


「まだたくさん困っている人がいると思うんです」


 エルザは静かに言う。


「王国の外にも」


「そうでしょうね」


「だったら役に立ちたい」


 その言葉に嘘はなかった。


 金儲けが嫌いなわけではない。


 利益は必要だ。


 だがそれだけではない。


 誰かの生活を少し良くする。


 それが彼女の原動力だった。


 昼になると二人は昼食を取ることにした。


 王都でも評判のレストランである。


 窓際の席。


 白いテーブルクロス。


 花瓶には季節の花。


 料理が運ばれてくる。


 焼きたてのパン。


 白身魚のムニエル。


 香草の香るスープ。


 新鮮な野菜のサラダ。


 そして果実のタルト。


 エルザは一口スープを飲んだ。


「美味しい」


「それは良かった」


 ラインハルトが微笑む。


 穏やかな時間だった。


 以前なら考えられない。


 常に不安があった。


 常に誰かの顔色を見ていた。


 だが今は違う。


 自分の足で立っている。


 自分で考えている。


 それが嬉しかった。


 食事を終えた後、二人は王都を散歩した。


 初夏の風が心地良い。


 噴水広場では子供たちが遊んでいる。


 商人たちの呼び声。


 花の香り。


 焼き菓子の甘い匂い。


 平和な午後だった。


「エルザ」


 不意にラインハルトが立ち止まる。


「はい?」


 振り返る。


 すると彼の表情が少しだけ真面目になっていた。


 珍しい。


 エルザは首を傾げる。


「どうしました?」


 ラインハルトは少し息を吐く。


 そして懐から小さな箱を取り出した。


「え?」


 エルザが目を丸くする。


 箱が開く。


 中には指輪があった。


 繊細な銀細工。


 中央には小さな青い宝石。


 夕陽を受けて美しく輝いている。


 周囲の音が遠くなった気がした。


 ラインハルトが静かに言う。


「仕事も人生も」


 その青い瞳が真っ直ぐ向けられる。


「隣で歩いてほしい」


 エルザは言葉を失った。


 驚いた。


 嬉しかった。


 そして少しだけ泣きそうになった。


 彼は最初から自分を信じてくれた。


 没落令嬢だった頃から。


 才能を見てくれた。


 価値を認めてくれた。


 支えてくれた。


 いつの間にか、その存在は特別になっていた。


「私……」


 声が震える。


 ラインハルトは黙って待っていた。


 急かさない。


 それも彼らしい。


 エルザは笑った。


 心から。


 そして頷く。


「はい」


 たった一言だった。


 だが十分だった。


 ラインハルトの表情が柔らかくなる。


 指輪が左手にはめられる。


 ぴったりだった。


 周囲では噴水が輝いている。


 風が吹く。


 花びらが舞う。


 未来の匂いがした。


 もう過去を振り返ることはない。


 婚約破棄も。


 苦しかった日々も。


 全て必要な道だった。


 だからエルザは前を見る。


 王国の先へ。


 世界の先へ。


 まだ見ぬ市場へ。


 まだ見ぬ人々へ。


 そして隣には、同じ未来を見つめる人がいる。


 二人の挑戦は、まだ始まったばかりだった。


癒えし傷 越えて見据えん 青き海


同じ未来を 歩む指輪と



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