ステラという名前
リオノーラ視点
その噂を知るまでに過ごした日々は、私にとっては目も眩むほど嬉しくて愛しい日々だった。
軍行を終えて無事帰ってきたアステライトと一緒に、まるで昔みたいに身を寄せ合って眠った。
あまりにも朝早かったから。
アステライトは徹夜で軍行を終えたあとだったから。
短くて軽い出撃だったと言う割に、アステライトは私を抱きしめるとすぐに眠ってしまった。
その寝息を聞きながら、彼の体温の温かさや、抱きしめてくれる腕の強さ、寄せた胸板の硬さなんかに安堵して、気がつけば私も眠っていた。
とても穏やかで、愛しい眠りだった。
そして、目覚めて。
しばらく、眠っている彼の寝顔を眺めていた。
こうしてその寝顔を一緒に寝転んで眺めていた夜からどれだけ経ったのだろうかと、ぼんやり考えていた。
懐かしさと寝起きのぼんやりとした頭で、思考は明瞭ではなかった。
「ステラ……」
だから、心の中で呼んだはずの名前が音になって声に出ていた。
ピクリとまぶたが震えて、ゆっくりと青い目がこちらを見た。
まだ眠たげだけれど、確かな意思を持った眼差しが。
「呼んだか…? リオ…?」
息を呑んで、身を引きかける。
そんな私を逃がすまいとアステライトの手が背に回って、引き寄せられた。
「二人だけのときはその名で呼んでくれ」
懇願のような声音に、ゆっくりと頭を振る。
アステライトがぐっと歯を噛み締めた音が聞こえた気がした。
「……どうして、ステラという名前、だったの?」
だから聞いてみることにした。
聞いてみたいと思っていたけれど、ずっと聞けなかったことを。
「その呼び名は……、リオと会う前の日、フォーレスタの儀式でダンジョンに潜る日にあいつが呼んでた愛称だ」
「ダンジョン…? フォーレスタ殿下が? アステライトの普段の愛称はステラなの?」
「いや、違う」
アステライトはきっぱりと否定する。
身分が高い者をわざわざ愛称で呼ぶのはよほどの仲か、家族くらいしかいない。
それも子どもじみた行動と見られることもあるから、高位貴族の常識としては、名前をちゃんと呼ぶのが礼儀だ。
「フォーレスタは毎回俺に会うたび、その日の気分で愛称を決めて呼んでくる。まともに名前を呼ばれるほうが珍しい」
「どうしてそんな……」
続きを言いかけて止めた。
アステライトはなぜ私が言葉を止めたのか十分分かっているようだった。
そのうえで言葉が続く。
「ややこしいとかめんどくさいことを、と思うだろう? 正直俺もそう思うが、まあ、慣れだ」
「慣れ……」
首を傾げると、アステライトは柔らかく笑った。
「子どものころ、初めてフォーレスタと対面したときにな。遠慮はいらない、っていうから、剣術を習いだしたばかりのフォーレスタをボコボコにした経緯があって」
「初対面で王太子殿下を剣でボコボコ……?」
それは子どもの間で起こったこととはいえ、明らかに不敬に当たることでは?
「王太子だろうと戦う術を学ぶのは当たり前だろう? でも、あいつは国待望の世継ぎの王子で、甘やかされててな。剣術指南すらこう、一目で分かるような甘やかされっぷりで、一言で言うなら自信過剰に大人の気の遣い方を勘違いしたわがまま王子様で」
アステライトが苦い顔をする。
「同じ歳の俺なんか歯牙にもかけない、みたいに高慢ちきだったから、遠慮なくボコボコに……」
そのときの大人たちの反応が目に浮かぶようだ。
「多分あれは、ああなるようにという国王陛下の狙いだったんだろうなとあとになって気づいた。ご自身でもどうしても甘やかしてしまう可愛い王子の鼻っ柱を折って、現実を突きつけてほしい、みたいな」
「わぁ……」
大人たちの思惑も理解もできるし、同時に当時の王太子殿下への同情も禁じ得ない。
そんな私の複雑そうな反応に、アステライトはなんとも言えない笑みを浮かべて、目を細めた。
「俺はそこからフォーレスタに好敵手扱いされ、なにかにつけて戦う相手になり、一時期側付きみたいなこともして、そのうち仲良くなって、学園も同じ時期に通い。その中で、まあ、最初のころなんだけど、俺を決まった愛称じゃなく、比較的可愛らしい愛称で呼ぶことで羞恥心を植え付けてやろう、みたいな子どもらしいいたずらを思いついたフォーレスタは」
「最初のころの目的を忘れて、アステライトの愛称を量産し続けている?」
「そのとおり」
小さくため息を吐くアステライトは、それでもどこか楽しそうな、親友の子どもじみた行動を許している穏やかさがあった。
「俺もときどき王太子殿下を『フォー』と愛称で呼ぶが、……これも子どもじみた対抗心の名残だな。愛称を呼ばれるなら呼んでやる、みたいな」
アステライトは私の髪に顔を埋め、深く呼吸してから、静かな声音になって、言葉を続ける。
「リオにその名を名乗ったことに深い意味はない。偽名を名乗っておくほうがいいと、あのときはそう思ったんだ」
正体不明の少女に。
もっともな考えだ。
「ん……」
「次に会えて礼を言うとき、名乗ろうと思っていた。……でも、本気で言い損ねた。一番言わなきゃいけなかった礼もだ」
ぎゅっと、私を抱きしめるアステライトの腕に力がこもる。
「その次に会えたときは、リオが寝込んでいてそれどころじゃなかった。次こそは、次こそはと思って、どれもこれもそれどころじゃなくて、……気がついたら、リオに『ステラ』と呼ばれることがひどく心地良いと思っている自分がいた」
アステライトはぎゅっと私を抱いたまま、顔を見せてくれない。
彼の腕の中で、その言葉を聞くだけになってしまう。
「嘘を、吐き通そうと思っていたわけじゃない。弟のことが終わって会いに行けたら、全部話すつもりだったんだ。本当だ…っ」
それは必死の弁明に聞こえた。
わざとじゃなく、本当の名を告げられなかった不実を心底悔いているような。
少しだけ考えて、尋ねてみた。
「……目のことも?」
眼帯をつけて、隻眼であると思わせていたことはどう思っていたのだろうか?
本当はとても気にしていたんだと告げていない自分にも非はあるが、やっぱり、どんな理由があったのか、目が無事だったのなら無事だったと教えてほしかった気持ちはある。
アステライトはひどく驚いた表情を浮かべた。
「目のことはもう話したろう? ……あ、酔ってたときだから覚えてないのか…っ。くそ…っ」
酔ってた?
誰が?
疑問に首を傾げる。
悪態を吐いて、アステライトは私の手を取ると、左目の上にそっと触れさせた。
「幸運にも眼球は無事だった。かなり適切に手当てをされていて、いい薬を塗ってもらっていたから、痕はこの程度で済んだのだろうと医者や薬師に散々言われた」
傷が治った痕の凹凸が肌に残っている。
その感触を確かめるように、優しく撫でた。
「通常考えられる手当てや薬じゃ、傷痕がしっかり残っただろうと。別に顔に傷が出来ても気にはしないが、その話をしたらシアンやニビアに怒られたよ」
戦士なのだから顔に傷が残ろうとなんだろうと、と言った二十歳の若造を怒りつける、親よりよく面倒を見てくれた使用人たち。
「そっか……、私、ちゃんと役に立っていたんだね」
ほっと、安堵の息を吐く。
「役に立っていたどころか、リオがいなければ俺は死んでただろうし、生きていても後遺症が出ただろう。あのときの手厚い看病と痛み止めをくれて送り出してくれたことでフォーレスタにさっさと無事を伝えに行けた。どれだけ礼を言っても足りはしない!!」
力強い感謝の思いとともに出てくる名前。
「また、殿下? ……ダンジョン…、あのときのアステライトが負っていた怪我はダンジョンで負ったの? フォーレスタ殿下とダンジョンに潜ったの? それで、魔物にあれほど傷を負わされて…?」
話してくれた内容と、あのときの状況を当てはめていく。
私が一生懸命考えているものだから、アステライトは少し言いにくそうにしながらも説明をくれた。
「あー…、フォーレスタの成人の儀式で奸計に遭ってな。ダンジョンの中と境界の森で夜通し魔物と連戦した。フォーレスタと近衛騎士は無事逃がして、俺は殿で。朝に戦闘を終えて、フォーレスタのもとへ行こうと森を進んで、……あとはリオが知るとおりだ」
そう教えてくれたアステライトの話の内容に、引っかかるものがあった。
思考を巡らせている間、アステライトの目の上に触れたままの手で優しくなでなでと撫で続けていたけれど、自分でも気づかない無意識。
アステライトの気持ちよさそうなうっとりした表情に目を細めるけれど、それも無意識だった。
だって、やめろとか止めろとか、なにも口を出してこないから、撫で続ける手を止めなかった。
「……ダンジョン、罠の、奸計…? 王太子殿下を狙って? 親友が、殿を守って…、フォーレスタ殿下はアスラン……。獅子王子…、冒険譚……」
私の口からその言葉が出た瞬間、アステライトはギクリと身を震わせた。
その反応。
思わず、湧き上がった興奮にアステライトを見る。
「演劇の『獅子王子冒険譚』の親友は、アステライトなの?!」
ガバッと、驚きとともに身を起こす。
同じくアステライトも素早く身を起こした。
「あの演劇の中身と一緒にするな!! てか、リオノーラもあれ観たの?! ぐあぁっ、なんでだよっ!! こっ恥ずかしいな!!」
耳まで赤くなったアステライト。
「どこまでが本当なの?! 教えて教えて!!」
「必要ないから言わん!! どうでもいいだろ?!」
「気になるっ!! だってソーラス兄様だって登場していたのだもの」
「ソーラス殿も?! ……ああ、フォーレスタの無事を確保したのはエルトフォード公爵だという話だったからその繋がりか。……でも、俺が特にあの演劇についてなにか言うことはないっ!!」
「ええっ?! そんなぁ!!」
なおも追いすがって問い詰めたい私を振り切って、アステライトはベッドから飛び下りた。
「もう何年も前の話だろ?! なんでだよ…っ!!」
「『獅子王子冒険譚』は人気で、今でもあちこちの領を回って上演されてるはずだよ? そのうち諸外国にも行くんじゃないかって言われてるし、子どもにも読みやすい文章にした本が広まっているそうだよ?」
それを聞いて、アステライトは照れたまま驚いて、わなわなと震えた。
「ああっ、くそっ!! フォーレスタめ!! とりあえず俺はその話はせん!!」
アステライトは手早くドレッシングルームから服を鷲掴みにして持ってきた。
時刻はとうに昼を迎えてしまっている。
着替えて公務や軍の仕事に戻る気なんだろう。
私も自室の方へ戻って、身支度をして公務に戻らなければとは思うけれど。
「アステライトのけちんぼ……」
本人の口から、どんな奸計だったのか、どんな戦いだったのか、演劇とどれだけ違うのかなどを聞けるなんて、物語好きな私には胸躍ることなのに。
思わず口を尖らせて悪態を吐く。
まるで逃げるように隣の執務室へ行こうとしていたアステライトはそんな私の悪態を聞いて、今まさにドアを開けようとしていた手を止め。
「そんな可愛い顔して言っても駄目!!」
真っ赤な顔のまま叫んで、それからやっぱり逃げるように執務室へ入っていった。
バタン、とドアが閉まる。
アステライトの私室のベッドに、いつもどおり一人取り残された。
でも。
「……可愛いって」
初めてそんなこと言われた。
アステライトのことなんて言ってられないほど自分も真っ赤になって、思わず枕に顔を埋めた。
リオノーラ
アステライト




